早めに退けることになって、室田と一緒にあずま荘に帰った。鬼頭精機とどっこいか、それ以上におんぼろのアパートは、あちこち古く傷んではいるものの、それは地震前と同じで特に目立った被害はないようだ。拳磨の部屋も、流し台に置いてあったコップが落ちて割れていた程度だった。
もともと拳磨の部屋ときたら笑ってしまうくらいに物がない。日常のほとんどが作業服だし、ほかの最低限の衣類はタンス代わりの段ボール箱の中だ。「家が金持ちだから、おまえは物に執着がないんだ」と室田が言っていた。
その室田が、
「おい、ちょっとこっちきてみろよ!」
慌てたように呼びにきた。
ついて行ってみると、部屋の中は無残なばかりにぐちゃぐちゃだった。万年床の周りに、カップ麵の容器やエロ本、その他得体の知れないもの、知りたくないものが散乱している。だが、これは地震の揺れのせいではなくて、室田の部屋はいつもこんな状態である。彼が見せたかったのは、テレビの映像のようだ。
室田の指差す先で、日本のどこかの町が波に呑み込まれていた。
「剣……これ、どういうことだ?」
拳磨は言葉を失い、ただ画面に見入っていた。
東北太平洋岸の被害は甚大だった。とはいえ、室田も拳磨も、事態の深刻さを理解できていなかった。そのまま週末の休みに入り、二人ともいつまでもぐだぐだ寝て、起きると一緒に蕎麦屋に行ってスタミナうどんを食ったりした。あとは陽の高いうちから風呂屋で湯に浸かり、アパートでビールを飲んで過ごした。蕎麦屋でも銭湯でも、テレビは地震の惨状だけを流し続けていた。
地震報道には、いつの間にか福島の原発事故が混じるようになってきていた。拳磨はテレビもパソコンも持っていない。買おうかと思ったこともあったが、吾朗とサヨがきて、貯めていたカネを渡してしまった。
サヨ……そういえば、あいつら福島にいったんだった。
大丈夫かな、と気になった。心配なのはサヨのことだ。しかし、サヨが頼る相手は、すぐ近くにいるんだと思い直した。
月曜日に出社すると、機械の位置ズレを直し、精度の確認をした。
鬼頭精機では宮下がバイクを使っているだけで、あとは皆徒歩通勤だ。列車ダイヤにも混乱が出ているようだが、そのあたりとも関係がない。拳磨にとって震災は依然として現実感を伴わないものだった。原発事故の影響による電力需給の対策など今後いろいろあるんだろうが、そのへんは鬼頭や宮下からのお達しに従うだけだ。一昨日の揺れのために、作業場は多少とっ散らかってはいたが、その程度でひとまず日常が再開されていた。
道具類を棚に戻していると、
「剣、ちょっとこっちこい」
宮下に声をかけられ、あとについて工場の奥にいった。ガラス戸に仕切られた、日中はそこで鬼頭が事務仕事を行っている社長室のようなところだった。
「おまえ、福島いけや」
崩れ落ちた書類を拾っている鬼頭に突然そう命じられた。
「ふ、福島って……」
拳磨は一瞬、マスクと防護服に身を包んだ自分の姿を想像した。
「毛利んとこ行って手伝ってやれ。えれえ被害が出たらしい。やつの親父、毛利製作所の社長からメールがきた」
「“応援頼む”とでも?」
「んなこと言って来るかよ。だがな、製造業は相身互いっちゅうもんだ」
「はあ……」
どうして俺が、と思う反面で、福島に行ったらサヨに会えるかもなどと考えたりした。
「おまえは期限付きレンタル移籍っちゅうわけだ」
「その期限ていうのは?」
「向こうが落ち着くまでだ。とっとと行って、力になってやれ」
「俺のバイクを使え」
宮下が言って、キーを差し出した。
「新幹線なんて動いちゃいないからな」
「これ、付けてけや」
鬼頭に渡されたのは、白地に赤文字で『緊急車両』と書かれたステッカーだった。
「昨日のうちに警察に行ってもらってきた」
宮下のオートバイは、オフロードタイプのものだった。クロスカントリーが趣味で、バイクに光恵と名付けているらしいとは、室田から聞いた話だった。光恵は、宮下の別れた女房の名前である。
拳磨は光恵に跨ると(オイオイ)、光恵に乗ると(オイオイ)……まあ、バイクで出発した。
例の『緊急車両』のステッカーはフロントフェイスに貼った。震災の翌日から緊急車両のみ東北道・常磐道の通行を許可されていた。物資運搬用に突貫工事でなんとか走行できるようにしたらしい。その緊急輸送道路は、野次馬対策のため走行規制されている。走行許可の証がこのステッカーだった。高速入り口には検問が設けられていた。
「しかし、どいつが、好き好んでこんなとこを走りたいと思うんだ?!」拳磨は心の中で毒突いた。
走行できるようにしたとはいえ、それはなんとか走れるというだけであって、道のあちこちが隆起し、ガタガタだった。真っ直ぐになどとても走れたものではない。拳磨はアスファルトの亀裂や盛り上がりを斜めにくねくねとよけながら進んだ。前に車が走っている時には特に注意を要した。急ブレーキをかけることがあるからだ。
しかし走っていて、たいていは無音だった。普段は大渋滞で埋めつくされているはずの真っ直ぐな道路上に、車の姿は一切なかった。ごくたまに自衛隊や工事用車両を見かける程度だ。
人里を離れると、ますます静寂に包まれた。天と地の間で拳磨のバイクだけがよたよたと進んでいた。聞こえるのはそのエンジンの苦しげな音だけ。
日没が近づいていた。いったい、ほんとに辿り着けるんだろうか?
座礁した船のように、道の真ん中に乗り捨てられた車が夕陽に染まっていた。
福島県は西側の会津、東部の太平洋に面する浜通り、そして中間の中通りという三つの地域に分かれる。会津と中通り、中通りと浜通りの間をそれぞれ仕切るのは奥羽山脈と阿武隈山地だ。
中通りにある毛利製作所に着いたのは深夜一時を回っていた。吾嬬町から十五時間を要していた。
こんな時間に着いたところで、誰もいないだろうし、どうしたもんだろう? そんな拳磨の懸念は消し飛んだ。工場の窓からは煌々と明かりが漏れていた。そして、その窓にガラスがないことに気がついた。
駐車場にバイクを止め、正面入り口から中に入る。玄関とその向こうにあるカウンター越しの事務所の電気は消えていた。廊下の奥で、明かりが差している窓付きドアの向こうが工場らしかった。
押し開いて中に入ると、男が三人、女が一人、床一面に飛び散ったガラス片を拾い集めていた。
しゃがんでいる男の一人がこちらを振り向き、不思議そうな表情をした。
拳磨はフルフェイスのヘルメットを脱ぐと、毛利に向かってぺこりと頭を下げた。
「剣君」
「先輩」
「きみ、どうやって、ここまできたの?」
「光恵に乗って」
*