kataya

第一章:岐路

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白衣に身を包んだ拳磨は、ファントームの口の中を覗き込んでいた。実習用のマネキンの生首で、歯列模型がはめ込まれている。
洞穴(ほらあな)のように暗い口腔内をライトで照らした。タービンにも小さなライトが付いている。歯科医院で聞こえるキーンというのは、この切削器具が立てる音だ。今も教室のあちこちでこの音が響いている。ダイヤモンド粒子の付いた軸が、一分間に何十万回という高速回転をして歯を削る。ダイヤモンドバーには、常にタービンから注水が続けられている。今は模型だが、摩擦熱から歯牙を守るためだ。タンパク質は八十度くらいで変性を始める。
歯列は、中切歯(ちゅうせつし)(真ん中の前歯二本)を境に、左右の奥に向かって一番、二番……と数える。上顎の六番、七番の奥歯を削るのは特に厄介だ。拳磨は今、その上の七番に取り掛かっていた。
削り終えると、ファントームの口の中から歯列模型を取り出して眺める。
「さっすが剣君」
と横で見ていた岡野絵理奈が言った。彼女はトレーで、歯型を取るためのアルジネートを水で混ぜていた。
絵理奈とは何度か寝ていた。確認し合ったことはないが、付き合っていると言えばそうなるのかもしれない。
地元の歯科医大に通う拳磨は二年生になっていた。殴り合いからはもはや足を洗っていた。
「ブリッジの平行性を考えて、ほんとなめらかに削ってる」
絵理奈が大きな目をキラキラ輝かせる。いかにも育ちのよさそうな彼女にそう言われて、悪い気はしなかった。いつだったか、「剣君こそ、お坊ちゃんじゃない」と言い返されたっけ。「新幹線からもガラス張りの診療室が見える、T駅前の持ちビルのクリニックの跡継ぎでしょ。ユニットがずらっと並んで、人も大勢使ってるし」
補綴科(ほてつか)のブリッジの実習だった。抜けた歯を埋めるため隣り合った歯と橋渡しをするように合金のクラウンを被せて連結する。その際、土台となる両側の歯の表面を削るが、ブリッジの被せ物との適合を考えなくてはならない。歯の形に合わせて均一の厚さに削る。それはミクロンの感覚だった。
「ワックスアップも大事だけど、俺はやっぱりその前段階の歯の削りで差が出ると思う」
拳磨は言った。
「剣君はワックスアップも上手じゃない」
歯からとった石膏型に、ワックスを詰めたり、塗りつけたりしてクラウンの鋳造型をつくる。エバンス(歯科技工用の彫刻刀)で、ワックスを歯の溝や山に沿って形を整えていく。ワックスを薄く盛っては削り、盛っては削る。
「嫌いじゃないな」
拳磨は言って笑った。
「あれも削りだ」
「それに研磨も」
と言葉を重ねて絵理奈が微笑む。彼女は、鋳造されたばかりの金属の詰め物やブリッジをシリコンポイントで磨くことを言っているのだ。
「剣君、合ってるのよ、この仕事に。最初は怖そうな印象だったけど、繊細なとこあるし」
「俺が繊細? バカ言ってんじゃねえよ」
「それとも剣君が削りの天才なのは、親子三代の歯科医のDNAがなせる業ってことかしら」
拳磨は黙っていた。

帰宅すると、珍しく父の由兼(よしかね)がいた。歯科医師会の役員をしている由兼は、休診日でも忙しくしている。そのほかにも学会、講演、愛人、ゴルフ――ほとんど家にいることなどなかった。
拳磨が無言でリビングを通り抜けようとすると、
「大学はどうだ?」
と、これもまた珍しく声をかけてきた。
なにも応えないでいると、母の佳(か)苗(なえ)が、
「形成や技工が上手なんですって。先生にもとっても褒められてるそうよ。ねえ、ケンちゃん」
その場を取り繕うように言葉を挟んできた。
母もかつては歯列矯正の歯科医だった。だが、父に技術不足だと言われ、仕事を辞めさせられた。
「技工? そんなものいくらうまくできたって、現場に出れば技工士に任せるものだろう。拳磨、この仕事、特に開業するってことはな……」
その時、ジーンズのポケットで携帯電話が鳴った。拳磨は由兼の言葉を無視して、ケータイを取り出すとリビングを出て行った。
「拳磨、久しぶり」
電話は吾朗からだった。

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