kataya

第七章:螺旋(らせん)

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あの神無月の野郎が、今度は美咲の前に現れやがった。いや、神無月の会社に美咲のほうから就職したわけだから会うべくして会ったわけか。
心がざわついていた。
神無月の野郎が「ステキな方」だと?「本物の紳士」だって? 胸くそ悪いぜ。
だけど反面でこうも思う。自分は神無月のなにを知っているのだろう、と。やつとは面と向かって口をきいたことすらないのだ。同じ市内にある未来型学園のプリンス様をただ羨んで、カネ光(びか)りしたヤな野郎だと、決めつけてただけなのかもしれない。サッカー部を退部せざるを得なかったことも、町で会った光学園の生徒がよくつっかかってきたことも、みんな神無月が蔭で糸を引いていたと思ってた。それが違ってたとしたら……
いや、それならサヨのことはどうなる? 神無月がサヨに目をつけ、腕づくで吾朗に手を引かせようとした。あの土手に集まってた連中はどうなる? 室田も「雇われた」って言ってたよな……
だが、「神無月に雇われた」とまでは言ってなかった。そもそもが、あの室田の言ってることだ。どこまで本当のことか分かりゃしない。……本当ってなにが? 室田が神無月に雇われたってことがか? それとも、そもそも誰かに雇われたってことがか?
「ふー」
拳磨は口をとがらせ息をひと吹きして、自分の前髪を揺らせた。
なにがなんだか分からなくなってきちまったぜ。
もしかしたら俺は、これまでとんでもない独り合点をしてきてなかったか? 神無月を妬んで、勝手に仮想敵にして、それで牙を剥いてた。――だとしたらどうだ? またしても俺はとんでもねえ勘違い野郎じゃねえか。案外やつは、美咲の言うようにステキで紳士的なのかもしれない。年寄りの下の世話を率先してやる、偉ぶらない、いいやつかもしれない。
そこで拳磨は首を振った。
なに考えてるんだ、おまえは。あの神無月の野郎がいいやつなはずねえだろ。
それまでの思考を払拭するように、もう一つの封筒を開けた。室田の名が差出人だった封筒の中には、しかし手紙が入っていなかった。縦に二つ折りにしたハガキが一枚入っていた。それは、室田のとどっこいくらいに汚い字で書かれた、吾朗からのものだった。



拳磨は久しぶりに宮下のバイク(そう、あの光恵号だ)を駆って、浜通り地区に向かっていた。
緑の森の中を走っていると、この間の震災も、原発事故も、みんな嘘のようだった。
しかし、紛れもない現実にすぐさま引き戻されることになる。吾朗からのハガキの宛名にあった住所で拳磨はバイクを止めた。メットを外して汗ばんだ髪を空気にさらしてやる。福島に来てから理容店に行っていない。後ろ髪がだいぶ長くなっていた。
鉄扉が開け放たれたままのコンクリートの門柱の間を抜けて中に入る。
校庭は、まだそれらしい雰囲気を残していたが、そこを往き来しているのは生徒らではなく、年齢も性別もばらばらの人々だった。
二年前、統合により閉校となった県立高校は、今や津波で家を失った人や、原発事故の影響により避難生活を余儀なくされている人たちの生活の場となっていた。
行き合った初老の男性に尋ねると、ハガキに書かれていた旧剣道場は体育館の裏側にあった。ここも引き戸が開いたままで、中を覗くと十畳に満たない一間が段ボールやベニヤ板で間仕切りされていた。仕切りはあっても、その向こうに置かれた生活に必要な雑貨のあれこれは丸見えだ。
染みのついた白いカーテン越しに射し込む夏の陽に浮き彫りにされたその光景に唖然とし、入り口に立ち尽くしていると、
「拳磨!」
声がかかった。
見ると、衝立の向こうに吾朗が顔を覗かせている。そして、すぐさま立ち上がると嬉しそうにこちらに駆け寄ってきた。
拳磨はというと、そのまま吾朗が姿を現したベニヤの仕切りから目を離さないでいた。やがて期待通り、サヨがゆっくりと半身を覗かせると、それは驚くほどのことではないはずなのに、やはり心臓に小さな衝撃が走るのだった。
「拳磨、おまえどうやってここにきたんだ?」
すぐ傍に立った吾朗がはしゃいだように訊く。
しかし、拳磨はサヨから目を離さずに、
「光恵に乗って」
と応えていた。

古い畳が敷かれた剣道場には、六世帯八人が生活していた。プライバシーもなにもない。けれど、こんな時だからこそ、知らない者同士でも一緒にいることで力強いのだと吾朗は言った。
「この一間だけじゃない、この避難所に住んでるみんなが同じ気持ちなんだ」
クーラーなどはない。開け放った窓の向こうでセミの鳴き声が降るように響いている。時折風が揺らせるカーテンの隙間から、青々とした空と湧き上がるような白い雲が覗き、それがこの場から眺めるとなんとも非現実的だった。
「店は無事だったよ。けど、戻れねえんだ、原発事故の避難地域の圏内だからな。それだって、俺もサヨもこうやって生きてる。でも、死んじまった人だっているんだ。たとえば、漁港の和菓子屋の親父さん。よく行ってた店なんだけどな。うめえ菓子つくるんだ。俺もパンつくるのに勉強になってさ。話聞かせてもらってた。だけど、店ごと津波に呑み込まれちまった……」
吾朗の声がくぐもった。
サヨがいたわるように吾朗の横顔を眺めている。
拳磨は黙っていた。
「その菓子屋さ、『バイ貝だばい本舗』っていって、バイ貝だばいしかつくらねえんだ」
「バイガイダバイ?」
拳磨が問い返すと、吾朗が頷いた。
「バイ貝って食ったことねえか?」
「ああ……まあ、あるよ」
「煮つけにしたりすると、いい酒の肴になる。サヨがよくつくってくれるんだ」
そこで、吾朗がサヨの顔を見た。二人で目を見交わしてほほ笑んでいる。
へえ、サヨはそんなもんをつくるんだ。吾朗は、サヨがつくったものを肴に晩酌なんてしてるんだな。そんなことを拳磨は漠然と思った。羨ましくもあった。
「浜通りの漁港でもよく獲れたんだ。で、その親父さんがさ、バイ貝の形をした最中をつくってた。巻貝の口から粒あんが覗いてる。うめえんだ、これが」
吾朗が、「なあ」と再びサヨを見る。サヨがほんのり笑った。
拳磨は彼女の横顔を見つめながら、サヨの頬が少しふっくらしたかも知れないと感じていた。

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