「分かんなくなったって?!」
室田が目をぱちくりさせていた。
翌日は終業時間になると、久し振りに毛利、室田と一緒に工場を出た。もう溝入れはできたのだし、残ってまでするようなこともなかった。
牛丼屋で特盛を味噌汁で流し込み、三人でアパートに戻った。間もなくして、毛利と室田が缶ビールとつまみを手に、拳磨の部屋にやってきたのだった。
「分かんなくなったって、仕事で分かんないことがあれば、及ばずながら、先輩に訊いてみたらいいのに」
毛利が不服げに室田を見やった。
「及ばずながらって、きみね……まあ、いいや。剣君が言ってるのはそういう意味と違うんじゃないかい」
「だから、先輩じゃ役に立たないっていうんなら、ミヤさんに相談するとかさ」
「役に立たないって、コラッ! そうじゃないの。剣君が言ってるのは、仕事を続けてく意味が分からなくなったってことなの」
「ふーん」
「まあ、きみみたいに葛藤のないオトコには理解できないだろうけどね。きみなんて、考えることといえば、食いたい、飲みたい、ヤリたいくらいだもんね」
「あ、ヤリたいは先輩の専門分野でしょ」
そんな二人のやりとりを眺めつつ、拳磨は自分の迷いを口にしたことを後悔していた。すると、浮かない顔をしているのに気づいたのだろう、毛利が話を向けてきた。
「だけど、どうして急にそんなこと思ったわけ?」
それで、後悔しつつもさらに言ってみた。
「俺が旋盤の仕事をしようって思ったのは、この仕事が向いてると思ったからなんすよ。削りって、俺にとって数少ない取り柄だと思ってたから」
「それは、歯科大時代の経験によるんだよね?」
拳磨は頷く。
「けど、本質の違いってやつを知ったら、そもそもなんでこの仕事をするのかが分かんなくなっちまって」
「剣君は、得意だからこの仕事をしようと思ったわけだ」
「だって、そうでしょ? なにも苦手なものをわざわざ仕事に選ぼうなんてするやつはいないんだから」
「そりゃそうかもね」
と毛利も応じる。
「ま、僕の場合、家業を継ぐって前提があったわけで、向き不向きなんて考えたこともなかったけど」
「あーあ、選んだ道が間違ってたんすよ。ミヤさんが最初に言ってたっけ“なあ剣、おまえもまだこの仕事をいつまで続けるかなんて分からんだろう”って。“ほかの道だってあるかもしれん”て。それに気づいたんなら、とっとと辞めて、その、ほかの道に行くってえのもあるのかな、なんて」
それまで黙っていた室田がギロリとこちらをにらんだ。
「さっきから聞いてりゃよ、おまえはいい身分だな、剣。いや、昔っからそう思ってたよ。でかい歯科医院の跡取りで、男前でカッコよくて、おまけにケンカが強くてっよ。うらやましかったぜ、ずっと。だから、おまえの顔なんて見たくもなかった。高校卒業して、やっと俺の前から消えたと思ってた」
「室田……」
「そしたら、通ってた歯科大をプイと辞めちまって、また現れやがった。そんで、俺のやってる仕事を追い越して、今度は自分の性に合ってねえなんて言い出しやがった」
自分をにらみ据えている室田の目が、みるみる赤く充血してきた。
「俺は……あれもこれもダメ、またおまえに追い越されてどうしたらいいんだよ……」
「俺が、おまえを追い越した、だって?」
「そうだよ、剣君」
毛利が言ってきた。
「溝入れ刃物の砥ぎには技のセンスが素直に出るんだ。きみは、その溝入れをたった二ヵ月間で制覇してしまった。普通なら一年かかるところを、たったの二ヵ月で、だ」
「単純な外周切削にあれだけ手間取った俺に、センスなんてあるはずないでしょ」
コマの軸を真っ直ぐに削るという作業に、毛利や室田以上の時間を要していた自分だ。
「それはきみが、単純な削りをなめてかかってたからだよ。きみは削りの腕に自信を持っていた。歯を削っていたきみにしてみれば、大きな丸棒を削ることなどたやすいことに感じられたんだろう。その油断が時間をかけさせた。だけど、今度の溝入れでは、意地がきみを動かした。削りに自信のあるきみは、絶対にできるはずだという意地があった。いや、意地が本気を出させたんだ」
室田はぼんやりと畳に目を落としたままで、柿ピーを口に運んでいる。
毛利が真っ直ぐな視線をこちらに向けていた。
「きみは、親の敷いたレールに乗っかりたくなかったって言ってた。でも、いまだにその影響下にあるようだね。きみはさ、前の世界を捨てて、旋盤の仕事に就いたんじゃなかったのかい?」
拳磨は手の中にあったビール缶を潰すように握り締めると、一気に呷った。
俺は……俺は……みんな裁ち切ったつもりでいて、実は引き摺ったままだったんだ。
ジーンズのポケットでケータイが振動した。股間がムズムズした。
「はい」
と電話に出て、立ち上がり、二人から離れて玄関口に行った。
「アタシ」
「え?」
「サヨ」
「ああ」
今までのことがすべてどうでもよくなった。
「久しぶり、ね」
「ああ」
「今、ケンちゃんちのすぐ下にいるの」
「ほんとか?!」
拳磨は毛利と室田の横をすり抜け、汚れた窓から外を見下ろした。秋の終わりの月明かりに照らされ、白いワンピースを着たサヨが立っていた。ケータイを耳に当て、こちらを見上げている。月の光で、顔も服も蒼く見えた。
サヨの隣には吾朗が立っていた。
「今いく」
拳磨はケータイを切ると玄関の上がり口で、かかとを踏んでスニーカーを突っ掛けた。
「お客さんかい?」
という毛利の声が聞こえたが無視した。
外階段を下りると、エンジンを切った黒いバンの前に二人はいた。
「ゴロちゃんてば、電話しづらいからって言って、あたしにかけさせたんだよ」
サヨの後ろに身を隠すようにして、吾朗が媚びたような、それを隠すような笑みを浮かべている。
「吾朗」
呼びかけると、急に真顔になった。
「拳磨、ほんとにすまん」
膝にくっ付くくらい頭を下げた。
「いいよ、もう」
すると低頭したまま、上目づかいでこちらの表情を伺っていた。
「俺らのこと、まだダチだと思ってくれてるか?」
「当たり前だろ」
「そっかー! よかったー!!」
バネ人形のように勢いよく姿勢を戻す。
「だから言ったでしょ、ケンちゃんはいつまでも根に持つようなヒトじゃないからって」
サヨが屈託なく言う。
そんな言葉を聞くたびに、コイツって死ぬほどバカなんだろうなと思う。しかし、そうした言動とは裏腹に、この女の切れ長の目はどこまでも冴えわたっているのだった。
「ケンちゃん、なんかヤラシー名前の会社に勤めたんだったね」