kataya

第三章:突切り

拳磨はバイトを持ち、いつものようにグラインダーに向かっていた。まず、刃先の先端を柄の部分と直角になるように研ぐ。そして直角になった砥石車の角の部分を使い、刃先上面が鋭利に切り立つようにほんのわずか研ぐ。この“わずか”が刃物砥ぎのキモであることがだんだんと分かってきていた。
直角に砥いだ刃先が斜めにならないように上面を砥ぎ上げる。それによって、切れ味や仕上がり形状が決まる。
「そこがいわば職人の腕の見せどころ、勘の働き場所だ」
宮下の声がした。振り向くと、刃物を研いでいる自分の手元を見つめていた。
「今おまえがやってるのが“上(うえ)すくい”といわれる繊細な作業だ。仕上げたい刃先の大きさや形状は職人ごとに異なる。そのため、研ぐうえでのさじ加減に必要な砥石車の角が丸くなるのを職人は極端に嫌うんだ。分かったか?」
拳磨は無言で頷いた。そして、研ぎ上げたバイトで溝入れする。
「できた!」
溝の底が平になっていた。ガッツポーズこそしなかったが、外周切削でコマの軸を真っ直ぐにできた時よりも数段の達成感があった。
「どれ?」
宮下が点検した。
「なんでえ、ずいぶんと早くできたもんだと見てみりゃよ」
拍子抜けしたような表情になった。
「ぜんぜんじゃねえか」
「だってミヤさん、底が平に……」
「ああ、確かに底はな」
「どういうことです?」
宮下がそんなことも分からないのかといった目で拳磨を見返した。
「おまえ、溝に指入れてみろ」
言われたとおりにする。
「あ!」
「分かったか?」
溝の両側がなめらかでないのだ。ギタギタになっているのが指の腹に伝わって来る。
「どうだ、溝の壁がむしれちまってるだろ」
なんということだ。
拳磨は再び重苦しい徒労が全身を覆うのを感じた。

「……ってことだよ、剣君。おい、剣君、聞いてる?」
毛利の声がした。
「えっ?」
聞いていなかった。
昼間は単純な外周切削をしている。だが、頭からは溝入れのことが離れなかった。
なんで、溝の壁をあんなふうに傷つけちまうんだ? バイトの刃は、先だけでなく、両側も真っ直ぐに研ぎ上げているのに……
「剣君、根を詰めすぎなんじゃないの? 少しは息抜きしないとダメだよ」
そう言ったあとで、毛利がにやけたような表情をした。
「ははあ、それともあれか、例の彼女のことでも考えてたのかな? 美咲ちゃんていったっけ。焼肉屋で会った彼女と付き合い始めたんだってね」
「そんなんじゃないけど……」
「いーの、いーの」
と毛利は手を横に振り、
「しかし、出し抜かれたよなあ、僕も室田君も。いや、たいしたもんだよ、ほんと。いっつも静の構えでいて、肝心なところになるとサッと素早く動く。酔いつぶれた女の子を優しく介抱して、しっかりハートまでつかんじゃうなんてさ」
女絡みになると毛利の口調は執拗である。
「大丈夫、だいじょぶ。我々の仲間意識に変わりはないから。ちっとも根になんて持っていないよ」
しっかり根に持っているようだ。
それはともかく、今夜また美咲と会うことになっていた。溝入れのことが気になって、キャンセルしようかとも思っていた。だが、毛利の言い種ではないが、気分を変えることも必要かもしれない。
仕事が終わって喫茶あずまに行くと、すでに美咲はやってきていて、紅茶を飲んでいた。
「ケンちゃん、なににする?」
マスターがやってきた。
「いつもの」
「ホットね」
そのあとで耳もとに顔を近づけ、拳磨にだけ聞こえるようにささやいた。
「このあいだは、ただのお友達かと思ったけど、またこうやって二人で会ってるってことは、もしかしてステディな関係?」
言い終わると顔はにこやかなままで、拳磨の尻を思いきりつねった。
「あつっ……」
涙目になった。
「どうしたの?」
そう尋ねる美咲に、
「なんでもない」
と応えながらカウンターのほうを見やると、マスターがこちらをにらみつけていた。マジかよ……
「ねえ、拳磨君――あ、そう呼んでいい?」
頷いた。
「このあいだ拳磨君に会った時、気がついたんだ。わたしは就職が決まらなくて悩んでるんじゃない。自分がなにをしたいかが分からなくて悩んでるんだって」
自分のしたいこと……か。
「拳磨君は、歯科医の道を捨ててまで、削りの仕事を選んだわけでしょ」
「待てよ。そんなんじゃねえよ。美咲・ちゃんは……」
「なんか呼びにくそう」
「美咲はさ」
そう言ったら、うれしそうに頷いた。
「美咲は、勘違いしてるよ。俺は親の跡を継ぐのが嫌で歯科大を辞めた。んで、食ってくために今の仕事をしてるだけだ」
「そうかなあ」
こちらの目をのぞき込むような視線を送ってきて、拳磨は少しどぎまぎした。
「だって、わたしが鬼頭精機を訪ねた時の拳磨君のあの表情、好きなもので夢中になって遊んでる男の子の表情だったよ」
「遊んでなんていねえよ」
「ごめんなさい。楽しそうに仕事してたって言いたかったの。一心不乱に、真剣に、厳しい表情で取り組んでたけど、あの仕事が本当に好きなんだって分かった」
「いや、遊んでなんかいねえって言ったのは、そんな余裕がないからだ。むしろ旋盤に遊ばれちまってるのはこっちのほうだ」
美咲が首を振った。
「拳磨君がうらやましい。夢中になれる仕事があって。わたしなんて、就きたい仕事なんてなにもないもの」
「誤解だって。間違った自分のイメージに、無理やり俺のことを入れて見てるだけだって」
なにげなくそう言ったあとで、ハッとした。
「悪い。俺、帰るから」
拳磨は立ち上がると、きょとんとしている美咲を残し、あずまを出た。
「ちょっと、コーヒーは?!」
というマスターのヒステリックな声が背後でした。
(つづく)
 

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株式会社ヒューテック・藤原多喜夫社長

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