あくる日も、またあくる日も、拳磨は終業後に溝入れとバイト研ぎを繰り返した。その合間にグラインダーの砥石車を均す。
「あ、てめえ、こんなに砥石を減らしちまいやがって」
宮下が眉を吊り上げた。
「いくらタイムカードを押した後だからって、タダじゃねえんだからな」
するとその肩に手を置いて鬼頭が言った。
「一緒だな」
宮下が不思議そうに鬼頭を見返す。
「ミヤさんにも覚えがあるだろ?」
「社長――」
宮下はそれ以上なにも言わなかった。
一緒? どういうことだ? いや、そんなことはどうでもいい。今はバイトのことだけだ。刃先を真っ直ぐにすることしか拳磨の頭にはなかった。それにしても、刃物を研ぐってことが、こんなにも難しいもんだったとはな……
仕事が終わっても帰らない拳磨に、毛利も室田も声をかけなくなった。ほっといてくれているのだろう。
機械との対話の時間になった鬼頭と、作業場で二人きりになることがあった。そんな時も、鬼頭は特に助言するようなことはなかった。旋盤で、黙って自分の仕事をしていた。
ある日、鬼頭が珍しく拳磨に声をかけて寄越したので、何事かと思ったら、工場の入り口に若い女が立っていた。美咲だった。
「おまえのお客さんだろ?」
「はあ……たぶん」
旋盤に集中してて気がつかなかった。
「“たぶん”じゃねえだろ。あんなかあいい子を、こんなむさくるしいとこに迎えにこさせちまってよ。ほら、いいかげんにもう今夜は上がって、とっととどっかにいっちまえ」
鬼頭は例のにやにや笑いとは違う、へらへらとからかうような笑みを浮かべている。
仕方なく拳磨も、
「ちょっと待っててな。ここ片付けちゃうから」
そう美咲に声をかける。
美咲は無言でうなずくと、鬼頭に向けて頭を下げた。
拳磨も鬼頭に、
「すみません、社長。お先です」
「謝られる覚えはねえよ。もう仕事は終わってるんだからよ。それに、ありゃあ、俺の娘でもねえ」
当たり前だ、あんたの娘なら顔見りゃすぐに分かりそうなもんだ。それはともかく、拳磨はそそくさとその場を後にした。
「よくうちの工場が分かったな」
「焼肉屋さんで、あなたと一緒にいた人たちが鬼頭精機って言ってたから。わたしの自宅も吾嬬町だし」
「いや、あんた、すんごく酔っ払ってたし、よく工場の名前覚えてたなって」
「酔ってたって、ちゃんと覚えてるわ」
そう言った後で、自分の醜態に思い至ったのだろう、頬を赤く染めた。
「あの時は、ほんとにごめんなさい」
町内に一軒だけある『あずま』という喫茶店にきていた。店主は中年の男なのだが、髪を紫に染め、裾の広いパンタロンを履いていて、いつもマスターと呼ぶべきかどうか迷う。その店主が注文を訊きにきた。
「あーらケンちゃん、今日はいつものあのチビとデブじゃなくて、美人さんと一緒なのね」
美咲は紅茶をレモンで、拳磨はコーヒーを頼んだ。季節に関係なく、いつもホットをミルク砂糖なしで飲む。酒よりもコーヒーが好きだった。
「家は、やっぱり工場なのかい?」
美咲が首を振った。
「どうして工場だって思ったの?」
「この町は中小の製造業が多いし、それに鬼頭精機の場所が分かったわけだから」
「インターネットで検索したの」
「へえ、うちみてえなとこでも、ネットに情報があるんだな」
「あなたのとこの社長さんて、ずいぶん有名人みたいよ」
「ふーん」
あの鬼頭のオヤジがね、と拳磨は思う。
「で、あんたのほうは、失恋の痛手から立ち直ったんかい?」
「なによそれ?」
「男にフラれて大酒飲んでたんだろ」
「あの時も言ったけど、そんなんじゃない」
『あずま』のマスター(ママ?)が、コーヒーと紅茶を運んできた。立ち去る時に、拳磨に向けて意味深な笑みを送って寄越した。
「ねえ、あのヒト、あなたのことが好きなんじゃない?」
「よせよ」
二人で笑った。笑ったあとで美咲が言った。
「就活に行き詰まってたの。今も行き詰まってることに変わりはないんだけど」
「就活って、四年生なのか? 大学生なんだよな」
「三年よ。今はね、大学三年が勝負なの。それなのに、エントリーシートで落とされて、面接にさえたどり着けない」
「早いとこ就職決めちまって、遊びまくりたい、大方そんなとこだろ」
「あのね、今の学生って、そんなにお気楽じゃないの」
美咲がため息をついた。
「“今の学生”っていうけどよ、俺もついこないだまで、大学に通ってたんだぜ」
「えっ、どういうこと?!」
「やめたんだよ」
「どうして?」
またサヨの顔が浮かんだ。それを振り払うために、
「関係ねえだろ」
突き放す言い方になってしまった。
美咲が戸惑ったような表情をしていた。
拳磨はちょっと悪い気がして、
「俺は二年だった。歯科大だったから、一般の就活の事情は分からなくってな」
そんなふうに言葉を継いだ。
「歯医者さんになれたのよね。それなのに、もったいないじゃない」
「歯医者にだけはなりたくなかったんだよ」
なんとなくそう言ってみて、初めて自分の気持ちが分かったような気がした。俺は、本心から、親の敷いたレールに乗っかりたくなかったのだと。吾朗とサヨのことがなくても、いずれは大学をやめていたにちがいない。
「なりたくないものとか、なりたいものとか、そんなこと選べる立場になんてない」
美咲が自嘲するような薄笑いを浮かべた。
「ああ、わたしなんて、きっとこのままどこにも就職できない状態で卒業して、非正規雇用者の道を歩んでゆくんだわ。それで年金の保険料だってろくに払えないで、結婚もできなくって、みじめな老後へとひた走るしかないんだわ。そんなふうに考えて、夜も眠れなくて……」
「で慣れない酒を喰らってたってわけか」
「最初は力つけなきゃって、“ひとり決起会”のつもりで焼き肉食べに行ったの。で、お酒飲んだら、なんだかどんどん元気が出て来るような気がして……」
「しょうがねえな」
美咲がうなだれると、
「迷惑かけてごめんなさい」
もう一度謝った。
「それから、ありがと」
小さな声で付け足した。