「どうしたの? 剣君、浮かない顔してるね」
そう言いながら、毛利は店員を呼んで生中をおかわりした。
拳磨は無言でビールを飲んでいた。
「俺、口ん中、常に肉が入ってる状態にしたいんスよ」
そんなことをもごもご言いながら、室田がいい頃合いに焼き上がったカルビやロースを箸で拾い上げては引っ切りなしに口に運び、また新しい肉を網の上に載せるという動作を永遠感覚で繰り返している。
給料日で、三人で奮発してチェーンの焼肉店にきていた。
「宮下さんが言ってたんだけどね、昔は工場で出る切り子を出入りのスクラップ屋さんがキロ幾らって、いい値段で引き取ってくれたんだって。その金で、社長が焼肉屋に連れてってくれたり、時には泡遊びなんかもしてたらしいよ」
そこで毛利がにやけた笑みを浮かべた。
「泡遊び、分かる?」
そう話しかけても拳磨が乗ってこないので、話題を変えることにしたらしい。
「前から訊いてみたいと思ってたんだけど、剣君はどうして削りの仕事をしようと思ったわけ?」
毛利に訊かれて、そういえばどうしてなんだろうと改めて思う。まずは成り行きからだった。たまたま吾嬬町に流れてきて、鬼頭精機の旋盤工募集の張り紙を眺めていた。そこに現れた宮下に工場の中に連れ込まれ、鬼頭と引き合わされた。あの日は、寝るところの当てもなかったんだもんな。住み込みの仕事にありつけて、鬼頭には感謝してる。だけど、あのオッサンもいい加減だよな、履歴書もない俺を簡単に採用するなんて。
そうそう、あの人言ってたな、「歯医者の卵が、削りつながりで旋盤工になるか、こいつはいいや」って。それで面白そうに笑ってたっけ。
「こんなこと言うのはなんなんだけど」
と毛利が拳磨を見る。
「それでも、僕は鬼頭精機にもう三年近く勤めてるし、先輩として気づいたことを伝えたいと思うんだけどね。剣君はここの仕事を始めたばかりの頃と、なんか違っちゃってるように感じるんだよね」
「違ってる?」
「うん。楽しそうじゃないっていうのかなあ」
そりゃあ、楽しくねえぜ。仕事がちっともうまいこといかねえんだからよ。
そこで、ふと拳磨は、絵理奈のあの言葉に思い至った。「剣君、合ってるのよ、この仕事に」――そうだ。俺は、なによりこの仕事に合っているんだ。歯科大でも削りの技術は群を抜いていた。だから、旋盤工募集のあの張り紙を見て、削りの仕事だと思ったからこそ、やってみるかと思ったんじゃねえか。
毛利が工場の息子であるように、自分にも歯科代々の血が流れている。絵理奈も言ってた、「剣君が削りの天才なのは、親子三代の歯科医のDNAがなせる業ってことかしら」と。
そうなんだ、俺は特別だ! 特別なんだ!!
「そうだ! きみは特別だ!」
毛利の声がした。
「え?」
「剣君、きみは特別のイケメンだ! 色男だ!」
先ほどまで、親身な感じで拳磨の仕事について話していたのとは別人の顔つきだった。毛利の目は、そう、勝浦の海水浴場にいた時と同じ目の色になっている。そして、その視線の先には、一人の若い女の姿があった。
「一人焼き肉ですよ、あの女」
室田が言った。
「今時、女の一人焼き肉くらい珍しくもねえだろ」
拳磨は言ってやった。
「いや、あれは失恋したって顔だぜ。傷心の一人焼き肉だ。肉好きの俺には、焼肉屋に来る女の気持ちが痛いほどよく分かるんだ」
「なんだそらあ?」
「見てみろよ。あの憂いを含んだ表情。いい女じゃねえか」
確かにきれいな女だった。二十歳そこそこか。色の白い細面で、長い髪をしている。その長い髪を耳の後ろに掛けながら、ハラミを食べていた。
「剣君、なにぼやぼやしているんだ?! 突撃だ!! 彼女をここに連れて来るんだ! 行くのだ、特別なイケメン拳磨!!」
マジかよ……
「それともなにか、先輩の僕の言うことが聞けないってかい?」
まったく、女絡みになると人格が変わっちゃうんだもんな。拳磨は仕方なく立ち上がった。
歩み寄ってきた自分を、彼女が見上げる。耳にかかっていた髪がはらりと落ちて、肉のタレの皿に浸かりそうになった。
「あ、髪が汚れるよ」
とっさに拳磨は言っていた。
彼女が髪を掻き上げて、
「ありがとう」
と言った。戸惑ったような表情をしている。
すかさず拳磨は、
「よかったら、向こうで一緒に飲まないか?」
そう誘った。あ、自然な感じで言葉が出たな、と自分でも思った。この前の海のナンパで慣れてきたのかも。
後ろを見たら、こちらに向かって毛利と室田が愛想笑いを浮かべ手を振っていた。
「そうね」
なんと、女はすんなりと自分の誘いに乗ってきた。
彼女は、美咲といった。
自分たちのテーブルにやって来た美咲は、焼き肉をがんがん食べていた。勧められるままに酒も飲んだ。彼女は口当たりのいいマンゴーサワーをぐいぐい呷った。
そんな美咲を見て、なにか事情があるのかもしれない、と拳磨は思った。それこそ室田の観察ではないが失恋でもしたのかもしれなかった。
毛利も室田も、煽るように彼女にどんどん酒を飲ませた。もしかしたら……と拳磨は思った。二人は、美咲を酔わせてアパートに連れ込もうとしているのかもしれなかった。だとしたら、この間の海でのこととはわけが違う。そりゃまずいぜ。
「気持ち、悪い……」
美咲が言って、サワーのグラスをテーブルに置いた。蒼い顔をしていた。
「ちょっと外の空気を吸ったほうがいい」
拳磨は彼女の腕を引いて立たせた。毛利も室田も邪魔するなといった顔をしていたが、構うもんか。
店を出ると、美咲を歩道のガードレールに腰掛けさせた。
拳磨も並んで座りながら、
「大丈夫か?」
と訊く。
「平気。少ししたら、戻れる」
だが、顔色はますます蒼褪めていた。
「もううちに帰れよ」
美咲が虚ろな眼差しを送ってよこす。
「なんかあったのか?」
「どういうこと?」
「様子が変だからさ。男にでもフラれたか?」
「そんなんじゃないわ」
背後を大型車が走り抜けてゆき、尻を乗せているガードレールに振動が伝わって来る。
「なんにしても、もう帰ったほうがいいよ。そんなに酔っぱらっちまって」
拳磨は立ち上がって、美咲の前に立った。
彼女は無言で、目が据わっていた。
「さあ」
立ち上がらせようとした時だ、
「グエッ」
美咲が拳磨の股間に向けて胃の中のものをぶちまけた。