kataya

第二章:切り子

あずま荘の二階、五号室のべニヤのドアの鍵は開いていた。中に入り、手探りで電気のスイッチを入れる。と、天井の蛍光ランプが室内を薄暗く照らし出した。ドアのすぐ脇が板張りの狭い台所で、あとは六畳一間。トイレは付いているが、風呂なし。台所の流しの横にガスコンロが一つ置かれていて、その横に、鬼頭が言っていた通りこの部屋の鍵があった。
部屋の中は、廊下と同じく木の腐ったような古いにおいが漂っていた。拳磨は畳の上を歩いて行って――ひと足ごとにミシミシきしむ音がする――窓を開けた。五月の終わりの夜の空気が忍び込んできた。この時期、陽が落ちるとまだ涼しい。
リュックを下ろすと、なにもない部屋に、ごろりと横になった。
ドアがノックされた。そちらを見やると、毛利が顔を覗かせた。
「剣君、どう、あばら家でがっかりしたんじゃない?」
「いや、そんな」
拳磨は半身を起こした。
「ちょっといいかな」
そのまま毛利は部屋に入ってきた。後ろに室田が続いていた。拳磨は警戒した。
さっき、この二人とあずま荘まで歩いてきた。途中、室田は無言だった。昔からの因縁がある。拳磨は、室田に対して気を許していなかった。
「歓迎会ってほどじゃないんだけどさ」
と毛利が言ってほほ笑んだ。
「少し話をしようと思って」
すると、後ろにいた室田が、抱えていた缶ビールやスナックを見せた。
「一緒に飲もうぜ」
そう言って、にかりと笑った。
拳磨も笑みを返した。
三人で車座になって飲み始めた。
「剣君、削りの初体験の感想は?」
毛利の問いかけに、
「同じ削りでも、こんなに違うのかって。今まではタービンの先の軸が回って削るわけで、歯のほうが回るわけじゃないから」
「ああ、きみ、歯科大に通ってたんだってね。歯医者さんは、リューターをタービンて呼ぶんだね」
「切削加工の現場では、リューターですか?」
「うん。もともとはブランド名みたいだけど、一般名詞化したようだね」
今度は拳磨が、
「工場では“成形”って言ってましたね?」
「そちらでは?」
「“形成”ですね」
「微妙に言い方が違うわけだ」
毛利が感心したように言う。
「もう、そちらではないですよ。俺も、この仕事を始めたわけだから」
「剣君も削り屋の道を歩き始めたわけだ」
「削り屋……」
初めて聞くその言葉が、拳磨の心になぜか深く届いた。「剣君、合ってるのよ、この仕事に」という絵理奈の声が再び頭の中で響いた。
絵理奈か……なにも言わずに来ちまったが、メールくらいしておくか。両親からの電話は着信拒否にしてある。もっとも、吉兼が自分に電話をして来るとは考えづらいが。
歯科大を退学したことは、間もなく由兼も知るはずだ。そうなれば、佳苗にも拳磨と連絡を取ることを禁じるはずだ。そして、佳苗も黙ってそれに従うだろう。
「なんか毛利さん、剣と話が合ってるみたいじゃないスか」
室田が言った。
「剣君、削りの仕事が好きそうだからね」
「俺が?」
「うん。だって、初めてなのに、時間も忘れて旋盤に向かってたでしょ」
「削り好きには、削り好きの気持ちが分かるってことっスね」
あの室田も、毛利に対しては一目置いているようだ。さっきの宮下の口ぶりを聞く限りでも、毛利はそこそこ腕前を認められていた。
「俺なんか、なんも考えないで、この仕事してるだけだもんな」
室田が珍しく自嘲するような口調になった。
「親から落ち着くように言われて、ここへきて……最初にこの会社の名前聞いた時、キトウセイキって、いったい何屋だろうと思ったもんね。だって、亀頭性器でしょ?」
毛利がそれには取り合わずに、
「もしかしたら面接の時、社長にも訊かれたかもしれないけど、なぜ歯科医になるのをやめたの?」
「俺は大学をやめただけですよ。歯科医になるには、国家試験に合格しなければならない。たとえあのまま大学に通ってても歯医者になれなかったかもしれないし」
「でも、なにか事情があるんでしょ?」
拳磨は少し考えてから、やはり吾朗の一件を除外することにした。吾朗、そしてサヨのことを。
「さあ、親の敷いたレールに乗っかりたくなかったってことかな」
「それなら、僕は親の敷いたレールに乗っかったままっていうわけだ」
拳磨は毛利の顔を見た。
「毛利さん、家が削り屋なんだ。だけど、鬼頭精機みたいな小っちゃい会社じゃないぜ」
毛利の代わりに室田がそう説明した。
「いや、うちだってたかだか従業員二十人の零細製造業だよ」
「ここには修業できてるんスよね」
「“ほんとに手でモノをつくってるのは鬼頭さんとこくらいだ”って、親父に放り込まれてね。“削りのイロハを教わってこい”って。でも始めてみたら、面白いんだよね、この仕事って」
そう語る毛利の目は真っ直ぐで、拳磨の心になにかが届くようだった。そして、吾朗とサヨのことも、退学したことも、両親のことも、なにもかも忘れて無心で旋盤に向かっていた先ほどの時間のことを思い出した。
「だけど、帰ったら、うちの工場ではみんなコンピュータ化されてるし、僕もスーツ着て営業に出るわけだから、ここで覚えたことってなんの役に立つんだろうとも思うんだけどね」
「いや、そんなことないですよ」
いつの間にか拳磨の口からそんな言葉が出いた。
「きっと、ここで覚えた削りの仕事は、今後、毛利さんが営業に出ても、会社を継いで社長になっても、心と身体の中で固い芯みたいなものになるはずですよ」
「固い芯か――」
毛利はなにかを噛み締めているかのようだった。
「さてと、じゃ、改めて乾杯といきますか」
室田が言って、三人で持っていた缶ビールをカチリと合わせた。
「ところでよ、あん時の膝蹴り、きいたぜ。鼻血が三日止まんなかったんだからよ」
「え、なんのこと?」
と毛利。
「いや、こいつ、めちゃくちゃケンカ強いんスよ」
「よせよ」
「だって、そうだろ」
「そうなの剣君?」
「こいつの一番の特技は、人の顔を削ることなんスから」
そう言って室田が笑った。「まさかあ」と毛利も笑う。拳磨も苦笑するしかなかった。

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