kataya

終章:駅

拳磨は負けが決まった時よりも、悔しく惨めな思いがした。勝負で負けたのに、優勝したことになり、日本代表として世界大会に出場するなんて……
「ディエップはベトナム代表として技能五輪世界大会に出る。そこで、再び競い合おうじゃないか」
飛葉がおだやかに言う。
ディエップはどこまでも澄み切った表情でいた。あのかすかにほほ笑んでいるようないつもの顔で。
「こんな第一位なんて、俺は辞退しますよ。国際大会にも出ません。それに国際大会はNC旋盤で競技するはずだ。俺が突き詰めたいのは汎用旋盤の技術なんだ」
飛葉の口からはなにも聞かれなかった。
「なんのためのプレーオフだったんだよ」
神無月産業の選手の間から声がした。
「主催者側だって、参考記録の選手じゃなく、日本人選手にせいせい勝ってもらうつもりでタイマン勝負させたんじゃないの? それに負けちゃうなんて、とんだ恥さらしだよな」
「うるさい!」
声を荒げたのは神無月だった。
「そういう無駄口は、あの二人より上の成績を上げてからにしろ!」
拳磨は鬼頭に優勝を返上したいと訴えた。
「だめだ。明日の閉会式にも出るんだ」
鬼頭は歯牙にもかけない。
翌日、会場に詰めかけた人々の万雷の拍手を浴び、首に金メダルをかけられた拳磨は一番高い表彰台の上で唇を噛み、うつむいていた。涙が出そうになった。

サヨのパン屋は、東北のローカル線の無人駅の中にあった。
「無人駅じゃないのよ、だってあたしが駅長なんだから」
サヨは鉄道会社の募集に応募し、ボランティア駅長に採用されたという。駅の掃除が主な仕事だが、それ以外はなにをしてもよいという条件で、駅舎の空き部屋をパン工房にしたのだ。
「それにちゃんと駅員もいるしね」
拳磨はかごのようなベビーベッドですやすやと眠っている海に目をやり、
「まあな」
と言った。
列車は上下線合わせて一日十五回止まるらしかった。
「なんとか元気にやってるみてえだな」
「元気、元気」
サヨは奥の工房で生地をこねている。
拳磨はジーンズの尻ポケットに両手を突っ込み、所在なげに売店のほうに立っていた。海は、たくさんのパンが並んだラックの横の陽だまりにいる。広い窓の外一面は、稲穂が刈り取られたあとの田園風景だった。
拳磨は母の元に吾朗が尋ねてきたことを伝えた。
「そう」とだけサヨは言った。
農作業の格好をした初老の女性が店に入ってきた。
「こんにちは、サヨちゃん」
「あら、おばちゃん」
サヨが手を止め、店のほうに出てきた。
「こないだサヨちゃんに教わったチーズフォンジューなんだけど」
「チーズフォンデュね」
「ああ、それそれ。とってもおいしかったから、またしてみようと思ってね。フランスパンちょうだい」
「バゲット? それともバタールにする?」
「その細長いほうにしようかね」
サヨがパンを袋に入れている間、おばちゃんは海の寝顔を眺め、次に拳磨を見て言う。
「こうしたパン屋さんが、このあたりにはなかったんでみんな大喜びよ」
それからも、仕事の途中らしい男性が車で乗りつけてコロッケパンを買ったり、部活帰りの女子高生らが自転車できてデニッシュを買っていったりした。皆、眠っている海を起さないように、けれどそっと、「こんにちは、海ちゃん」とベビーベッドにひと声かけてゆく。
「結構繁盛してるんだな」
「こんなあたしのパンでも、人が喜んで食べてくれるってだけで、つくり甲斐があるのよ」
「え、今、なんて言ったんだ?」
「人が喜んでくれるから、つくる意味があるって」
そうだったんだ。削るってことは、ただ削るだけじゃなくて、削ったものを誰かが使うってことなんだ。だから、使い勝手のいい製品を削り出したディエップに俺は負けたんだ。なんで、こんな当たり前のことに気づかずにいたんだ。
削るっていうのは、単に精度を求めることじゃない。ましてや汎用旋盤の道を極めるなんてことでもない。削った製品を、使う相手に届けるってことなんだ。よりよいものを使ってもらうための技術の向上なんだ。そこには、汎用もNCも関係ない。それが人が削るってことなんだ。ずい分と長い霧の中を歩き続けてきたような気がした。
「あのなサヨ、俺、来年、技能オリンピックでドイツに行くんだ」
たった今、そう決心した。

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