kataya

第一章:岐路

その風景は、中学時代の通学路に似ていた。毎日、自転車を四十分走らせて通ったあの河川敷の風景に。同じように川に沿って真っ直ぐにサイクリングロードも敷かれている。原付に乗った吾朗と再会したのもサイクリングロードだった。吾朗の思い出に引きずられるようにサヨの顔が浮かんで、胸がチクチクした。
土手の上で拳磨は川のにおいを吸い込んだ。ふと神無月一派と殴り合った時のことを思い出した。あれも河川敷だった。決して懐かしいなんて思い出ではないが、今からすればたわいないことのように感じられる。
東京に出てきた。べつに当てがあってきたわけではない。どこにも当てがないのだから、やっぱり東京だろうと思ったまでだ。
二百万は歯科大を退学してつくったカネだった。大学をやめれば、半期分の授業料が返って来る。そいつを使った。
だが、吉兼に無断でそんなことをすれば、家にはいられなくなる。リュック一つに荷物を詰め込んで、あの翌日、拳磨は家を出た。
川に向けていた視線を、今度は振り返って町のほうに移した。低い屋並みの向こうに、それだけが天を突くようにひたすら高く東京スカイツリーが立っていた。せっかく東京にきたのだから、テレビでしか見たことのない建設中のスカイツリーを拝んでやろうと思った。それで、さっき工事バリケードのすぐ下から見上げてきた。一年後がオープンなのだという。まだ完成していないのにもかかわらず、とにかくでかいな、と思った。地元で一番高いのっつたら、観音山のてっぺんにある白衣大観音だが、わけが違う。
そのあと、町中をぶらぶら歩いてきて、この川に行き着いたのだった。コンクリート護岸された土手の上には、〔一級河川 荒川〕という看板が出ていた。
青く澄んだ初夏の空、陽射しを受けてきらめく川面、スカイツリー、それらを順繰りに眺めていた拳磨だったが、ふと空腹を覚えた。  
なんか食うか。再び土手の上から町の中へ下りてゆく。
持ち合わせがあまりない、コンビニでカレーパンと卵サンドを買い、店の前の地べたに座って食べた。
また町をふらつく。工場街というのだろうか、入り組んだ窮屈そうな細い路地の両脇には、商家や住宅にまじって家内工業の小さな工場が散見された。電柱の街区表示には〔吾嬬町 Azuma-cho〕とあった。そうした工場が、皆一様にひっそりとしているのは昼飯時だからだろう。
東京だっつーのに、田舎くせえとこだな。そんなことを思いながら歩いていると、これまで見てきた中でも、ひときわ薄汚れた、トタン張りに、引き戸を開け放った工場(コウジョウではなくコウバ)の玄関先に、〔旋盤工募集 見習い歓迎 住み込み可〕という張り紙があった。
見上げると〔株式会社鬼頭精機〕という看板が出ていた。
ちょっとだけ中を覗いてみると、ここも昼休みらしく機械類が止まっている。天井の電気も消えていて、人の姿もない。ずいぶんと不用心だ。
旋盤つったら、削りの機械だよな。旋盤工っていうからには、それを使う人間を募集してるわけだ。
「剣君、合ってるのよ、この仕事に」という絵理奈の声が頭の中で聞こえた。「それとも剣君が削りの天才なのは、親子三代の歯科医のDNAがなせる業ってことかしら」
削りの仕事なら俺にもできるかもしれねえな、とぼんやりと思う。住み込みで働けるというのもありがたかった。今夜からのねぐらをどうにかしなければならない。
「なんかうちに用かい?」
突然声をかけられた。
振り返ると、痩身の男が立っていた。齢は四十代後半といったところ。左目の上に傷跡があった。口に爪楊枝をくわえている。どこかで昼飯を食って戻ってきたといった風情だった。
拳磨がどうしようか迷っていると、男は玄関先の張り紙に目をやり、ははんという表情をした。
「働きたいのか?」
そう訊くと、こちらの応えを待たずに中に入って行ってしまった。
「社長、募集見たってさ」
そう奥に向かって声をかける。
仕方なく拳磨もあとについて入っていった。工場の中は、油と金屑のにおいが立ち込めていた。
「社長、うちで働きたいんだって」
痩身がもう一度言う。
すると、さっき覗いた時には気がつかなかったが、奥の薄暗がりに、椅子の上でいぎたなく眠りほうけている男がいた。
痩身が、寝ている男の耳もとで呼びかける。
「しゃ・ちょ・う!」
すると、眠り男はピクリと身体を震わせ、目を開けた。
「ふう……昨日、プラ屋の穂積さんと飲み過ぎた」
どうやらここの社長らしい男は、両方の人差し指でこめかみを押さえていた。今時珍しいパンチパーマをかけた髪の後頭部が丸く禿げている。小柄だが、がっしりとしていて、身に肉が詰まっているといった体躯だった。
「で、ミヤさん、なんだって?」
社長にそう訊かれ、ミヤさんと呼ばれた痩身が拳磨のほうをとがった顎で示した。
「うちで旋盤やりたいらしい」
社長が二日酔いのどんよりとした目を向けてきた。
「履歴書出して」
そう言われ、
「持ってないんです」
と言うしかなかった。
「面接受けるのに履歴書持ってこなかったのか」
「たった今、そこを通りかかったもんですから」
「ふーん」
社長は、拳磨を眺め回してから、
「削りの仕事はしたことあんのかい?」
と訊いてきた。
「歯科大で歯列模型を削ってました」
「え?! んじゃ、歯医者の卵か」
「卵でした」
「でしたって、やめたのか?」
頷いた。
「なんで?」
拳磨が黙っていると、
「訳ありのようだな」
社長はそう言って、しばらくなにか考えているようだった。
「ただいまー」
そこに二人の若い男が入ってきた。社長やミヤさんと同じネズミ色の薄汚れた作業服を着ている。ここの従業員で、やはり昼を食べて戻ってきたのだろう。髪を短く刈った背が低いのと、もう一人はずいぶん太っていた。そして、その太っているほうに見覚えがあった。
「剣!」
向こうもすぐに気づいてそう言った。
「なんだ、室田、知ってるのか?」
社長がのんびりと言った。
そう、高校で番を張ってた、金髪デブの……いや、いまや金髪でなくなった黒髪デブの室田だった。
「高校のクラスメートっす」
社長に向かって、室田がしおらしく応えた。
クラスメートって面か。こいつがいる工場で働くなんて願い下げだ。「考え直す」と言って、とっとと出ていこうとした。
「そうか、室田の知り合いなのか。じゃあ、いいだろう」
なんと、社長はそう言って、拳磨の採用をあっさり決めてしまった。
「鬼頭だ」
と社長が名乗った。
「よろしくお願いします」
拳磨もそう言うしかなった。
「歯医者の卵が、削りつながりで旋盤工になるか、こいつはいいや」
鬼頭が一人面白そうに笑っていた。

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