
作業エリアにたった独り残された。いや、独りではない。見渡せば、一定距離を保って旋盤がずらりと並び、その横に選手らが立っていた。どの顔も緊張のせいか悲しげに見える。俺もあんな顔してるんだろうかと拳磨は思った。
冗談じゃないぜ。作業帽を取ると、ぐるりと首を回し、肩をほぐした。再びキャップを被り、一眼型の保護眼鏡を装着する。
予選の公差はプラス‐マイナス〇・〇四ミリだった。それが全国大会ではプラマイ〇・〇二にまで狭まる。最高レベルの戦いってやつだ。だが、そんなことは関係ねえ、俺は限りなくプラマイ〇を目指す。
九時ちょうどに競技開始のホイッスルが鳴り響いた。封印されていた昨日の試し削りの保管箱を開封し、四つの部品の一つをチャックに取り付ける。
さあ、いくぞ。
拳磨が荒削りを終えようとする頃にたくさんの人々が場内に入ってきた。競技開始から三十分は選手が作業に集中できるように配慮されているが、それ以後は見学時間として一般開放される。ギャラリーがアクリル板の向こうから好奇の目を注いで来る。
そんな中、拳磨は加工しながら気になる人の動きを感じた。
十二時になると一時間競技は中断される。
「視界に入るところにずっと立ってる人間がいるんだ」
拳磨は言った。
選手共同の控室で、室田と二人して昼飯を食べていた。指導者など外部との接触を避けるため、選手はここで支給された弁当を食べる。
「どういうことだよ?」
室田が問い返す。
「製品の向こう側にちらつくんで目障りなんだ」
「それ、妨害ってことか?!」
「しっ」
大きな声を出した室田を制する。
向こうのテーブルで神無月産業の選手やスタッフが大勢で食事していた。
室田が今度はやけに小声になって、
「だとしたら、委員の人たちは気づかないのかな?」
「それがなかなか巧妙なんだ。何人かが、入れ替わりで同じ位置に立つようにしてる」
「分かった。俺も注意しておくよ」
十三時になると競技が再開した。標準競技時間は午前三時間、午後二時間の計五時間。その時間内で加工が終了しない場合でも五時間十分で打ち切られる。製品採点で同点になった場合には、作業時間が短いほうが上位になる。
午後も開始から十五分するとオープン見学になった。だが、先ほどのように気になる人影はなかった。
中削りから仕上げへと順調に作業を進めていく。
長手部分の最後の部品に取りかかっていた時だ、突然、目の前に閃光が広がった。拳磨の視界が一瞬真っ白になった。
「うっ」
カメラのストロボが焚かれたらしい。戻ってきた視野の端に、にやつきながら去って行く男の姿がちらりと映ったような気がした。
レバーを停止位置にし、フットブレーキを踏んで主軸の回転を止めた。
「マイナスしちまったかもしれねえな」
もう駄目だと思った。終わった。いや、落ち着け、落ち着け、落ち着け。
深呼吸しながら向こうを見渡す。たくさんの人々がこちらを興味ありげに、あるいは大して関心もなさそうに眺めていた。そうして、その中に意外な顔があるのを見つけた。
「母さん……」
どうしてここに? なんでここにいるんだ?
佳苗は目が合うと、そっと頷いたように見えた。
拳磨はしばし呆然としたあとで、母から数人を置いて鬼頭と宮下が並んで立っているのに気がついた。
鬼頭は段ボールの切れ端のようなものを拳磨に向けてかざしている。そこには太字のマジックで〔仕事しろ〕と書かれていた。
そうか、なにを俺はいきり立ってプラマイ〇なんかにこだわってたんだ。まだ終わっちゃいない。これが仕事で、納期直前だったらどうするんだ。もう駄目だ、なんて言ってられるか! 普段通りでいいんだ。工場(こうば)にいる時を思い出せ。納期目指して、公差の数字の中で遊ぶんだ。
組み付けた製品を検査場所に提出して戻って来ると、佳苗が鬼頭らと挨拶を交わしていた。
「駅で落ち合おう」
と宮下が拳磨に向かって言った。
鬼頭が、
「帰りの電車ん中で、お疲れさんの一杯飲(や)ろうや。室田、おまえ、ビールとつまみ買っとけ。あ、領収書忘れんなよ」
「はい」
と応えて室田が、
「じゃ剣、あとでな」
「お疲れさま、拳磨君」
美咲もそう言い残すと、みんなで佳苗と拳磨に気を使いその場をあとにしていった。
「土肥君が尋ねてきたの」
彼らを見送ると佳苗が拳磨に言った。
「お金を返しにきたのよ。みんな聞いたわ。あなたに悪いことをしたって」
「吾朗……」
「ここに来れば、きっと会えるはずだって教えてくれたの。自分は行けた義理じゃないけどって」
「親父は知ってるのか?」
「ここに来ること? 知ってるわよ。お父さんも一緒に行くって誘ったんだけど」
佳苗が肩をすくめた。
「そうだろうな。まあ、跡継ぎは兄貴がいることだし」
親父が来るはずがない。
「わたしね、あなたが出て行ってから、お父さんとの付き合い方を変えたの。なんでも言うことを聞かないようにした」
そういえば母親の印象が少し変わったような気がする。なんだかさばけたみたいだ。
拳磨が話している母を眺めていると、向こうもこちらを見た。
「あなたなんにも言ってこないから、どうしたんだろうって……」
母はいつでも父と自分の間に入って、気を遣いっぱなしだった。
「ごめんな、母さん」
「でも、安心したわ。いい方たちに囲まれて、こんな競技会に出るような仕事を持って」
「歯医者を継げって言わないのか?」
「わたしが言ってるんじゃないわよ。言ってるのはお父さん。それに、あなたの人生でしょ」 (つづく)
この物語はフィクションであり、物語を構成する一部の技術に、実際と異なる演出や表現があります。
また、物語の構成上、一部に現存及び類似する商品、商標、人物、団体名などが登場しますが、これらはその経済的価値を利用し、またはその信用を損ねる目的で使用しているものではありません。
執筆に当たっては、製造業関係者の皆様のご協力を得ていますが、作中に誤りがあった場合には、それはすべて作者が創造したものか、認識不足によるところです。
上野 歩
SPECIAL THANKS
株式会社ヒューテック・藤原多喜夫社長
株式会社秋山製作所・秋山哲也社長
厚生労働省職業能力開発局能力評価課・松村岳明技能振興係長
中央職業能力開発協会、東京都職業能力開発協会、株式会社日立製作所電力システム社日立事業所の皆さん