
翌十月二十三日。諏訪湖イベントホールの前には早朝から多くの人々が集まっていた。選手と所属事業所のスタッフだけでなく、一般のギャラリーも混じっている。
室田と並んで突っ立っていたら、
「拳磨君」
声がした。
振り返ると、美咲だった。
「来てくれたんかい」
「始発できたの」
「悪かったな」
「応援してるから」
「ありがとな」
「そういえば、お宅の社長さんの姿を見かけたんだけど」
「ほんとかい?」
辺りを見回していた美咲の表情が凍りついた。その視線の先にスーツ姿の神無月純也が立っていた。
「久し振りだな剣君、剣拳磨君」
神無月の周りだけ別の時間が流れているように優雅だった。
「俺の名前を覚えてくれてたとは光栄だな」
ついに俺の前に現れやがったな、神無月。
「今日はきみの削りの腕前を見せてもらうのが楽しみだ」
「そっちこそ精鋭揃いのようじゃねえか。それにしても十一人を送り込むとは大したもんだ」
「あたりめえだ」
突然、神無月の声音が低くドスの利いた粗暴なものになったので驚いた。
「おまえを叩きのめすために集めたメンバーだからな――そう言って欲しかったか?」
「なんだと?」
「神無月産業からは毎年、多くの選手を技能五輪に送り出している。それは旋盤だけに限らない。そして、もちろん今回十一人の旋盤選手が出場するのも、おまえのためではない」
神無月が邪悪な笑みを浮かべた。
「おまえが嫌いなんだよ、剣。そうやってなにもかもを自分中心に考える単純さが。あの田舎町でも、自分だけは別格だと言わんばかりに振る舞ってた。少しばかり腕っぷしに自信があるくらいで、おまえは自分が風だとでも言いたげにしていた。だいたい複雑なこの世の中に単純な人間がなんと多いことか。おまえのように、これ一筋だなんて思い込んでひたすら頑張るやつ」
今度は室田に視線を向けた。
「そんなやつに傅(かしず)く無能なデブ」
続いて美咲を見た。
「人のためになりたいなんて考える傲慢女」
美咲が怯えたような目をした。
「そして札片(さつびら)を切られれば、これまでの因縁も忘れ、へこへこなんでも差し出すカスのような男」
「それなら貴様はなんだ神無月」
拳磨は言った。
「自分ではなに一つ手を下さず、いや、なにもできない、そんなおまえはなんだ?」
神無月の表情はまったく変わらなかった。
「何者にでもなれる存在だ。おまえとはわけが違う。おまえにあるのは今日の結果だけだ。今日の結果がすべてだ」
そう言い残し、神無月は去っていった。
拳磨は美咲を見やった。
「大丈夫か?」
美咲は震えていた。
「拳磨君、勝って」
拳磨は頷いた。
競技エリアに入り、工具と機械精度の最終チェックをする。
「剣、さっきのことだけどさ、神無月のやつ、おまえが嫌いだなんて言ってたけど、ほんとは好きなんじゃねえの。おまえ、男に好かれるとこあるじゃん。ほら、アズマのマスターとかさ」
室田の相手はせず、拳磨は芯高の様子を見る。
「ともかくよ、神無月はおまえをかっかさせようとあんなこと言ってるんだから、鵜呑みにするな」
「分かってる」
「あんなやつの手に乗るなよ」
「分てるって言ってるだろう!」
思わず大きな声を出していた。
「競技開始十五分前、付き添い人は競技エリアから出るように」
ハンディマイクを通じて補助員の声が聞こえた。
「じゃ俺、行くから」
外に出ようとする室田を、
「なあ」
と呼び止めた。
「いろいろありがとな」
振り返った室田が一瞬ぽかんとし、泣き笑いのような表情になった。
「よせよ、気持ち悪(わ)りぃだろ」
そそくさとその場をあとにした。