
「答えは簡単だ。汎用機械の未経験者と、習熟者では同じNC旋盤工でも差が出る」
ミヤさんはきっぱりとそう言った。
「剣はたまに製品を修正しろって言われるだろ? かつては、旋盤工は製品修正ができてこそ一人前って言われた。ところが、NC機は素材を一から全部削ることは得意なんだが、部品を固定したり、手段に勘が必要な修正には向かないんだ。NC機械は頭で考え、数字入力で削る。もし、汎用で得た製品の把握や修正の勘を数字に変えられれば決定的な差になるんだよな」
そんな話をするくらいで、技能五輪とは無関係な日々が過ぎてゆく。単調で、ただ仕事をしているだけの毎日。だから、せめて拳磨は走った。来る日も来る日も走った。仕事が休みの日も、ロードワークだけは続けた。
また新しい年が明けた。毎朝同じ時間に走っていると、日の出の時間が少しずつ早くなっていくのが分かる。そうしている間に、ずっと先だと思っていた技能検定は、最早目前に迫っていた。
日曜日、土手の上を走っていると、朝陽を背に女が一人立っていた。美咲だった。
「なんだ、アンタか。どうした、こんなとこで?」
拳磨は息を整えながら立ち止まった。
「もしかして朝帰りだったりして」
そんな軽口にも、しかし美咲は反応しない。うつむいたままでいた。
なんか様子がヘンだぞと思いながら、コホンと空咳をし、変わらぬ調子で続けた。
「神無月とはうまくいってるんかい?」
「わたし、あの会社に入るのやめようと思うの」
なにを言い出すのかとびっくりした。
「どうしたんだ? もうすぐ卒業式だろ?」
「あんなところに勤めるんなら、就職が決まっていないまま卒業したほうがまし」
「原因は神無月か?」
美咲がこくりと頷いた。
「あ、だからって、邪推しないで。そういうんじゃないから」
それは、神無月と美咲の関係のことを言っているんだろう。
やがて、彼女が大きく息を吸い込んで、
「噂があったの。入居者さんに暴力を振るっているって」
拳磨は強い衝撃を受けた。
「神無月がってことか?」
頷いた。
「右腕を骨折した男性がいてね。痴呆の症状があって、その人が暴れてケガをしたと親族の方には説明して納得してもらったんだけど……腑に落ちないところがあるの。スタッフのみんなもそう思っていた。薄々気がついてるんだと思う、誰がやったか。でも、それが親会社の後継者じゃあ、ね」
「なにかの間違いじゃねえのか? だいいち、なんでアイツにそんなことする理由があるんだ?」
拳磨は神無月純也の顔を思い浮かべていた。ピッチから見上げた、光学園高校のスタンドにいる白いシャツを着た神無月の姿を。
思い詰めたような表情で美咲が首を振った。
「噂だけじゃないのよ。訊いたの。わたし、彼に直接訊いた。そしたら、自分がやったって。その男性のせいで食事や入浴がスムーズにいかないから、右腕を拳で殴ったって。枯れ枝みたいにぽきりと折れたよって」
美咲は自分の靴の先を見つめていた。
「少しも悪びれた様子がないの。むしろ淡々としていて……いいえ」
美咲がまたもや首を振った。
「楽しげだった。あの人にしてみれば、なにもかもが暇つぶしのゲームなのよ。仕事も、わたしとのことも。みんな目先だけの楽しみ。そして、すぐに飽きてしまう。興味はほかに移っていく」
「ヤツはまだいるのか?」
「介護施設にってことなら、もうとっくにいない。次の職場に“研修”に行った。次の遊び場に、ね」
美咲が冷え冷えとした笑みを浮かべた。
「もしも、そこに彼がまだいたとしたら、拳磨君どうする気?」
「………」
「殴りにいった?」
「………」
「なら、誰のために殴るの? ケガをした男性の仇を討つの? それとも、もしかして私のため?」
戸惑って拳磨は美咲を見た。
「殴ったりしねえよ……ただ……」
「ただ、どうするの? なんでそんなことするのか彼に訊きにいくの?」
「分からねえよ、そんなこと」
そうだった。分からなかった。自分の神無月に対するこの気持ちが、どうにもつかみきれなかった。サヨの一件の時には、ヤツが集めた連中と殴り合えばことは済んだ。だが、今度のこれはなんだ? 怒りとはもちろん違う。
「拳磨君、わたしになにも言わなかったけど、知ってたんでしょ、神無月さんのこと」
肩がぴくりとした。
「神無月さんに会って間もなくの頃、休憩時間に高校時代の話になったの。そしたら拳磨君と同郷でしょ。もしかしたらと思って訊いてみた。そしたら、やっぱり知ってたの、あなたのこと」
「俺のなにを知ってるって? ヤツとは直接話したこともないんだぜ」
「だけど、あなたの名前が出た途端だった。あの人が、わたしに興味を示したのは。それまでは、歯牙にもかけないって感じだったのに。そうよ、きっとあの人は、わたしが拳磨君のこと知ってたから、付き合おうと思ったんじゃないかしら。ほんの気まぐれにでも、ね」
「どういうことだよ? 神無月がアンタと付き合えば、俺ががっかりするとでも思ったってことか?」
「あの人の考えてることなんて想像もつかない。でも、はっきりしてるのは、拳磨君の名前が出てから彼の態度が変わったってこと」
さっき美咲が口にした“暇つぶしのゲーム”という言葉の意味が理解できるような気がした。神無月は思い出したのだ、俺という昔のオモチャを。ソイツで久しぶりにちょっと遊んでみようという気まぐれを起したに違いない。
(つづく)
この物語はフィクションであり、物語を構成する一部の技術に、実際と異なる演出や表現があります。
また、物語の構成上、一部に現存及び類似する商品、商標、人物、団体名などが登場しますが、これらはその経済的価値を利用し、またはその信用を損ねる目的で使用しているものではありません。
執筆に当たっては、製造業関係者の皆様のご協力を得ていますが、作中に誤りがあった場合には、それはすべて作者が創造したものか、認識不足によるところです。
上野 歩
SPECIAL THANKS
株式会社ヒューテック・藤原多喜夫社長
厚生労働省職業能力開発局能力評価課・松村岳明技能振興係長
参考文献
西澤紘一『技能五輪メダリストの群像 ものづくり日本を支える若者たちの挑戦』オプトロニクス社
八木澤徹『技能伝承 技能五輪への挑戦 団塊引退―技を受け継ぐ男たち―』中央職業能力開発協会