三人目の恩師、猪熊先生が率いる強豪陸上部のある高校に入学したのは、宮腰先生の勧めがあったからだった。
当時は、左回りを右足で蹴り出さなければならないトラック競技にサウスポーは不利だといわれていた。左利きの樽夫にロード競技に専心するよう指導したのが猪熊先生である。
最高の選手七人で編制される駅伝は、ロードの華だ。とくに毎年十二月に都大路・京都を舞台に繰り広げられる全国高校駅伝を走ることは、すべての高校生ランナーの夢だった。樽夫は一年生でこの大会に出場。そこには、後にマラソンで世界的に名を馳せる選手の顔もあった。樽夫は二年次にも連続出場している。
しかし、三年生になった樽夫はスランプに喘いでいた。ただひたすら走り込みを続けていたが、ある日倒れた。病院での診断は鉄分欠乏性貧血。心臓が異常に肥大していた。「運動部なんてもってのほか、以後は体育も見学せよ」と医師に命じられる。
それでも隠れて練習を続けた樽夫だったが、とうとう復調することはなかった。あの円谷も、メキシコ五輪で金メダル獲得という周囲の期待が高まる中、「もう走れない」という遺書を残し自ら命を絶ってしまったではないか……
青春のすべてをかけた目的を失った樽夫は荒れた。正義の名の下に、不良退治と称してケンカに明け暮れた。
「似ている」と拳磨は思った。俺みたいな半端者と、毛利製作所の社長である樽夫を一緒にするのはおこがましいが、このあたりの経緯(いきさつ)は、サッカーを奪われ、ケンカ三昧だったあの頃の自分とあまりに似ていた。
「そんな時だよ、猪熊先生が俺に言葉をかけてくれたのは」
裏町でチンピラ三人と睨み合った。肩が触れたのどうのというくだらない原因からだ。一人がポケットに手を入れるのが目の端に映った。刃物を持っているのが分かった。しかし、樽夫はなにもかもがどうでもよくなっていた。その時だ、「なにやっとるかあ!!」大音声(だいおんじょう)が響き渡った。猪熊先生だった。
チンピラ連中がそそくさと去ると、先生は樽夫を会津蕎麦の店に連れて行ってくれた。そこで二人で黙って蕎麦をすすった。
「で、なんて言われたのさ」
毛利に向かって樽夫は首を振った。
「なにも言わなかった」
「だって、さっき猪熊先生が言葉をかけてくれたって」
「黙ってても、“樽夫、もういいかげん駆けっこ以外に新しい目標見つけろや”先生がそう言うのを、俺は胸で受け取ったさ。それが男同士っつーもんだべ。俺は感じたんだ、そん時猪熊先生が、俺のことを同じ男として認めてくれてんのをよ」
そう、小学校の井沢先生も言っていた。「おまえには、なにか一生懸命になれることが必要だな」と。中学の宮腰先生は、樽夫が一生懸命になれる“走る”という機会を与えてくれた。そして、高校の猪熊先生は、樽夫のその能力を伸ばしてくれ、今また、「生きろ」と無言で諭してくれた。
高校卒業後、樽夫は地元の切削加工会社に家業の修行を兼ねて就職した。ゆくゆくは父親が起こした毛利製作所を継ぐことになる。それに関してはなんの抵抗もなかった。子ども時代からいずれはそうなるんだろうなと漠然と思っていたから。陸上への思いが断たれ、その道筋が目の前にはっきりと現れてきただけだった。
だが一方で、樽夫は走ることに代わる楽しみを見いだしてもいた。旋盤だった。
樽夫は、修行先で触れた汎用旋盤の虜になっていた。それこそ寝食を忘れて技術の習得に努めた。次の“一生懸命になれること”に出会ったのだ。
「こんな面白いもんが自分の身近にあったなんて、気がつきもしなかった。もっと早く始めてりゃあよかった。そんな思いだったべ」
修行を始めて三年が過ぎた頃、樽夫は昼間の勤めと、夜間の家業を掛け持ちする二重生活を余儀なくされていた。機械好きの父が、市内の同業者の間でもいち早くNC旋盤を購入した。それはいいのだが、この機械を持て余してしまったのだ。そこで仕方なく樽夫が扱う羽目になった。
とうとう肚を括った樽夫は、父のほか職人三人だけの毛利製作所に入社した。
すると、それまで汎用機のみで行っていた作業にNC機が加わったことで作業効率が大幅にアップ。たちまち仕事の手が空いてしまった。
職人気質で旋盤に向かうのみの父に代わり、納品や客先との折衝を行うほか営業もしなければならなくなった。
毛利製作所は昔から付き合いのある大手企業一社だけとの取引だったが、樽夫はそこに日参してどんどん仕事を出してもらった。それをNC機でさばく。増えてきた仕事に対応するため、また新しいNC機を買った。それ以後も、仕事が増えるにしたがって買い足していった。
樽夫が結婚したのはその頃だ。久子は中学時代の後輩だった。
「そういうんだけど、わたしにはまったく記憶がないのよ」
と久子が言って笑った。
樽夫が顔を赤くさせたのは酒のせいばかりではないだろう。
二人は郡山の町で偶然再会し、樽夫が強引に交際を迫ったのだという。
仕事が増え、機械が増え、従業員が増え、工場の規模が拡大してゆく。
結婚一年後に、長男が誕生した。
「あ、僕ね」
と毛利が頭を掻く。
しかし、よい時は長くは続かなかった。バブル崩壊とともに業績が落ち込んだ毛利製作所を、樽夫は父から引き継いだ。「やるだけやった。もう閉めてもいい。好きにしていいから」それが父の引退の辞だった。
夏のボーナスが支給できず、社員の半分がいなくなった。樽夫は経営というものの厳しさを肌で感じた。「十数人しかない会社だからこんなことになるんだ。いつか三百人社員を抱える企業になってやる」そう心に誓った。
「っつても、いまだに三十人の会社なんだけどな」
と樽夫が苦笑する。
一社だけに頼っていた取引先を大手三社に拡張した。これなら一社が倒れても二本の柱が残る。
人手が減ったせいで、夜中まで働きづめの日々が樽夫と久子夫婦に続いていた。二人で手分けして運転し、社員の送迎も行っていた。そうやって、少しでも待遇をよくするしか、新しい社員を獲得するすべはなかった。
クリスマスシーズンを目前にしたある日、コンピュータゲームの部品の納入のため、夜中にトラックで工場を出た。樽夫が居眠り運転してはいけないと、助手席に乗った久子だったが、眠ってしまったのは彼女のほうだった。毎晩遅くまで働いて愚痴一つこぼさない久子の寝顔を見て、樽夫は目頭が熱くなった。
話を聞いている拳磨も鼻の奥がつんとなった。
樽夫も、久子も、そして毛利もしんみりとしてうつむいていた。
「いやー、剣君がきてるんで、つい余計な話をしちまったな」
照れ隠しのように樽夫が笑って見せた。
だが、この話を本当に聞かせている相手は、自分ではなく毛利なのだということが拳磨には分かっていた。樽夫は後継者である息子に、経営者としての、削り屋としての自らの軌跡を語り尽くしているのだ。
それを承知で拳磨は言う。
「もっと話を聞かせてください、毛利社長」
樽夫が頷いた。
「取引先を三社に増やしたって言ったよな。ところがITバブルが崩壊すると、そのうちの二社が、海外発注へと方針を切り替えたんだべ」
うっそりとした表情になった。
「機械がまったく動いてない工場で、俺は途方に暮れてただ立ってた。仕事がなくなった社員をどうするか? 人員削減はしたくない。そこで、行ったのが教育だった」
「教育?! 親父が?」
毛利が素っ頓狂な声を出した。
樽夫がにやりと笑った。
「なんだ、俺の口から教育って言葉が出たら、そんなに意外か? でもな、なにも国語や算数を教えようってわけじゃない。仕事の洗い出しして、簡単な作業から難易度の高い技術へと順番に並べ、等級を付けて段階的に研修させようと思ったんだ。それまでは、目先の仕事をただ行っていた。そいつをきちんと基本から見直させようと思ったんだべ」
「へえ」
毛利が感心したように何度も頷いた。
「だがな、俺の考えに対して社員の反応は二つに分かれた。こんな状況でも、自分のスキルアップを図ってくれるのかと感謝してくれる社員。なぜこの窮地に、のんびり構えてるんだと批判的な社員。幹部も同様だった」
話を聞いている毛利の顔は真剣そのもだった。将来的には自分も経営者として、社員らのそうした厳しい採択の前に立たねばならないのだから。
「二派に分かれた社員は、一方は残り、一方は去った。結局、残った社員間の結束が高まった。まあ、今いる社員たちが、まさにその時の彼らなんだけどな」
樽夫の言葉に、毛利の表情も緩む。拳磨もなんだかほっとした。しかし、これじゃ大河ドラマ『毛利製作所物語』だぜ、ほんとに。
「今の社員らに行った研修は技術面のテクニカルスキルのみではない。ヒューマンスキルも重視した。挨拶の仕方から始まり、敬重の心を学ばせた。いくら仕事ができても、人間の意識が低くてはいかん。社員が皆同じ方向を向いてないと、会社の力が充分に発揮できん。自分だけがいいんじゃなくて、持っている知識を人に教えることもそう」
道理でここの社員らはみんな礼儀正しいわけだと拳磨は思った。
「最初は返事もちゃんとしないような若い女子社員がね、不況の時は足にエアパッキン巻いて、暖房費を節約するんだって頑張ってくれたりね。みんなが自分から給料下げてくれって言い出して、難局を一緒に乗り越えようって――いつの間にか“自分の会社”って意識を持つようになってくれたんだね」
樽夫の目が潤んでいた。
「そんな中で俺は思ったさ。どこかに頼っているだけじゃあ、こうやってまた立ち行かなくなる。これからはお客様に頼られる会社を目指そうって。お客様に頼られる会社であれば、常に仕事はある。それで安定した運営をして、ここに入って本当によかったと社員が思える会社になってやろう」
かつて自分を導いてくれた三人の先生に恩返しできることがあるとすれば、それは自分の目標に向かって走り続けることだけだ、と樽夫は思ったと言う。机の上にあった円谷幸吉の写真は、陸上を断念して以後どこかに紛れてしまった。だが、それでいい。決して後ろを振り返らなかった円谷のように、自分も前だけを向いて走り続けるだけなのだから。
「……って言いながら、こうやって久しぶりに過去を振り返ってるんだけどな」
樽夫が笑う。
「あれからもいろいろあった。リーマンショックもきつかったけど、しかし今度のことには、この地震には……」
そこで絶句した。
「生き残るのは、強い者でも、賢い者でもなく、変化を遂げる者だ」
突然、毛利がぼそりとそんなことを口にし、樽夫が不思議そうに彼の顔を見やった。
「ダーウィンの『進化論』だよ。社長の話を聞いて、毛利製作所が小さな変化を遂げつつ生き残ってきたのが分かった。大丈夫、今度もこの危機をきっと乗り越えてみせるさ。協力してくれるよね、剣君」
拳磨は頷いた。
(つづく)
SPECIAL THANKS
株式会社ヒューテック・藤原多喜夫社長
毛利樽夫が語る人生は『エミダスマガジン』に掲載する「素顔 ニッポン製造業に賭ける経営者」の取材の際に
アルファ電子株式会社・樽川久夫社長と株式会社山岸製作所・山岸良一社長にうかがったお話がオーバーラップしています。