昔よく通った喫茶店に行くと吾朗とサヨがいた。高校を卒業してから二人に会うのは初めてだった。
拳磨は、吾朗と向かい合って座っているサヨの隣に腰を下ろした。いつかの神無月一派とのいざこざの後みたいに。
椅子に座る時、ちらりとサヨの白い横顔を見る。ドキリとした。またきれいになっていた。
サヨは近所に住む幼なじみだったが、不思議と顔を合わせることはなかった。吾朗はなにも言ってこないが、たぶん一緒に住んでいるのだろう。
吾朗は気を使っているのかもしれない。拳磨がサヨをただの幼なじみ以上に思っているのを知っているだろうから。
中学二年の時のことだ、朝礼で、近辺でカツアゲが頻発しているので注意するようにという校長の話があった。校長はカツアゲではなく、強盗と言っていたが。
当時、拳磨は河川敷のサイクリングロード十キロを、自転車を四十分漕いで通っていた。寝坊して遅刻しそうになるとその通学時間が二十五分に短縮した。
帰宅時は、サイクリングロードをのんびりと走った。そこから眺める川の景色や風、においが好きだった。
ある日、いつものように家に向かって走っていたら、向こうから原付二輪がやってきた。ここをバイクで走るのは禁止されている。
原付が、拳磨の行く手をふさぐように止まった。ノーヘルで乗っているのは自分とあまり年齢の変わらないようなやつで、あきらかに無免許運転だった。
「カネ出せ」
とそいつが言った。顔は日焼けして真っ黒で、目がすごんで釣り上がっている。だが、丸い鼻は愛嬌があった。そして、その団子(だんご)っ鼻(ぱな)に見覚えがあった。
「吾朗」
そう言うと、相手の表情が緩んだ。
「拳磨か?」
頷くと、吾朗が嬉しそうな顔をした。
「男前になったな」
「おまえだったのか、カツアゲしてたのは」
「なんだ、有名人か、俺? 帰ってきた挨拶代わりに小遣い稼いでたんだ」
「こっちに戻ってきたのか?」
吾朗とは幼い頃から一緒に遊んだり、つかみ合いのケンカをした仲だ。そうして、なにも分からないながら、身近にいる異性のサヨの気を惹こうと、競い合っていた。
その吾朗が小学校の途中、親子三人で引っ越していった。父親の仕事の都合だった。ところが、今度帰ってきたのは母親と吾朗の二人だけだった。父親が女をつくって別れたらしい。
吾朗が戻って、サヨ、拳磨との子どもの頃のような三人の関係が復活したわけではなかった。吾朗が引っ越した後、拳磨は女のサヨとの間に距離をとっていたし、日々のケンカと興味を持ち始めたサッカーを河川敷でするのに忙しかった。中学に入ってからは、サヨとは言葉さえ交わすこともなくなっていた。
だが、吾朗は違っていた。都会で暮らして妙に色気づいて戻ってきた吾朗は、サヨに大っぴらに近づいた。それまで周りにいたのは、硬派ぶっているわりに、その実、ガキっぽい田舎の中学生ばかりだった。吾朗の接し方が、サヨには好ましかったようだ。吾朗とサヨのことは公然のものになった。
けっして恵まれているとはいえない二人の家庭環境も、お互いを強く結び付けたのかもしれない。
「すまん拳磨、急に呼び出して」
「いいけど、どうした?」
吾朗はなにか言いにくそうにしていた。
「まさか、また神無月がなにか言ってきたんじゃないだろうな?」
サヨは確かにきれいな女だ。吾朗と付き合っているのを知っていて、それでも近づこうとする者はたくさんいた。しかし、それはサヨにまつわるある噂が、男たちを惹き付けたのかもしれない。あの神無月も、その一人だっただろう。なんでも手にすることができるはずの神無月が、あんなにサヨに執着したというのも。
「実はさ拳磨、俺、面倒事を起こしちゃってな」
「なにやったんだ?」
「事故ったんだよ、車で」
「誰かにケガさせたのか?」
「それがな、相手が悪かった」
吾朗が運転していた車が追突したのは、白の高級セダンだった。
それを聞いた時、子ども時代の点景が拳磨を捉えた。吾朗が引っ越す直前だから小学校の五年生の時だ。吾朗とサヨと三人で自転車で並んで走っていた。すると、後ろからクラクションが長く執拗に響いた。
拳磨はちらりと後ろを振り返えると、すぐに道ばたによけた。いかにもヤバそうな相手だったからだ。吾朗とサヨも端に寄った。
しかし吾朗がそれだけで済まさず、車に向かって言葉を吐きかける。それを拳磨は止めようとしたが、間に合わなかった。
「るせーんだよ!」
自分たちの横を猛スピードで追い越した車が、吾朗の声に反応した。キュルルルㇽ! タイヤを鳴らして急ブレーキがかかった。白く煙が上がっていた。
「ヤベー……」
今では吾朗も事態の深刻さに気づいていた。
車は白の高級セダンで、フルスモーク。
「逃げろ!」
拳磨の声で、三人は自転車のハンドルを逆方向に切ると、一目散に逃げ出した。
自分らを目がけて、セダンがエンジンをうならせバックして来る。
Y字路で吾朗が左方向に一人で逃げ、もう一方の道をサヨと拳磨はひたすら走った。車が自分らのほうを追ってきた。
見渡す限り田んぼの細い一本道を、車は少しもスピードを緩めることなく猛追して来る。轢いてしまっても構わないと思っているのかもしれなかった。
後部に付いている金色のエンブレムが、まるで笑っているようだ。
拳磨はサヨを逃がすために自転車を止めた。すると、後輪に触れるくらいのところで車がストップした。
すぐさまドアが開き、運転席から男が降りてきた。髪を角刈りにして、ティアドロップの色の濃いサングラスをかけている。車と同じく真っ白なスーツを着ていた。エンブレムと同じ金色の大きな指輪をしている。
「おまえか、さっき声を出したのは?」
拳磨は首を振った。
男は、道の向こうに目をやった。サヨが止まってこちらを見ている。
「逃がしてやろうとしたのか?」
拳磨はなにも言わなかった。
するといきなり自転車を蹴り飛ばされた。拳磨は自転車と一緒に田んぼに転げ落ちた。
「で、今度もまたそのスジの人間なのか?」
と拳磨は訊いた。
「〝今度もまた〟って?」
吾朗が不思議そうな顔をした。
「いや」
「ああ、そういう意味でだったら、ヤバい相手だよ」
「なんて言ってきてるんだ?」
「ぶつけられたショックで、アレが勃たなくなったって」
「え?」
「セックスができなくなったって言うんだ」
「確かなのか?」
「知るか、そんなもん」
隣にいるサヨに目をやったら、その横顔は薄っすらと笑みを浮かべているようでもあった。
「難癖(なんくせ)付けてきてるんじゃないのか?」
「そうかもしれないけどよ……」
「おまえ、保険とか入ってないのか?」
吾朗が首を振った。
「車はおまえのか?」
「会社の車だ。ベーカリーに勤めてんだけど、そこのライトバンに乗ってた」
「早朝配達して、そのまま明けになるんで、サヨを拾ってメシ食いに行ったんだ。あ、サヨも夜、店で働いてるから」
「店って?」
と訊いてみた。
「ヘンな店じゃねえよ。居酒屋だよ」
むきになってそう応える。
「そうか、分かった」
自分も悪いことを訊いたような気になってしまった。
「……だけどよ、会社の車使って事故起こしたの、これが初めてじゃねえんだ。今度のことが知れたら、クビだよ」
「会社の車のほうは大丈夫だったのか?」
「バンパーがちょっとヘコんだくらいで、すぐに修理から戻って来るし、主任にもうまいこと言ってあるんだ」
小さいことには機転が利くのが吾朗だ。
「しかしな、会社に知られないようにってだけで、相手が悪すぎやしないか?」
「そうだけどさ……」
「警察は? 警察に相談したらどうなんだ?」
「実は飲んでたんだよ、俺ら」
「酒か?」
吾朗が頷いた。
「向こうが言うには、飲酒運転して事故起こせば、罰金六十万に免許取り消し。同じ車に乗ってた者にも六十万の罰金が科せられるって」
「ほんとなのか?」
吾朗が苦しげに首を振った。
「ほんとも嘘もねえよ。まともな交渉ができる相手じゃねえし……。ともかく、そのへんも考慮に入れて、治療費も含めて二百万寄越せっていうのが向こうの言い分なんだ」
「二百万……」
「そんなカネねえよ」
ため息のように吾朗が言う。そうして、意を決したように拳磨を見た。次の瞬間、椅子から降りて土下座していた。
「頼む、拳磨! なんとかしてくれ!! おまえしか頼れる人間がいねえんだ!!」
カウンターの奥で喫茶店のマスター夫婦が、何事かといった感じでこちらをうかがっている。
「よせよ、そんなこと」
拳磨は吾朗を立たせた。
「高校ん時の神無月からの呼び出しとはわけが違う。今度は殴り合いじゃ片が付かないぞ」
「分かってるよ、そんなこたあ」
向かいにもう一度座った吾朗は、今度は居直ったような口ぶりになっていた。
「貸してくれねえか、カネ。必ず返すから」
「二百万なんて、俺が持ってるはずがねえだろ」
「なんとかならねえかな……その、つまり……」
「うちの金を当てにしてるのか? カネを持ってるのは親父だ。そして、その親父は、俺のためにだって無駄なカネを出しはしない」
「………」
土台が無茶な相談だ、こんなこと。俺にどうしろっていうんだ?
「あの時ね、ケンちゃんを見たんだ」
隣でサヨが言った。
「え?」
「〝あ、ケンちゃんだ〟って、あたしが言ったら、ゴロちゃんが脇見して、それで……」
「俺が歩いてたとこ見たせいで、吾朗が事故ったって言いたいのか?」
「ううん、そんなんじゃないの。事故起こしたのは、あたしらがいけないんだから。仕事が終わって、調子に乗ってお酒飲んで」
無邪気そうに笑う。この女は、本当に事の重大さが分かっているのだろうか?
「ケンちゃんさ、彼女できたの?」
拳磨はサヨの顔を見た。
「あの時、女の子と一緒に歩いてたでしょ。かわいい子」
絵理奈だ。
「そんなんじゃねえよ」
「なんだ、彼女じゃないんだ。あんな上品で素敵な子が、ケンちゃんの彼女だったらいいなって思ってたのに」
また笑う。
「ごめんね、ケンちゃん。こんなこと相談したりして」
サヨが拳磨に向かって言い、吾朗のほうを見た。
「おカネはさ、やっぱりあたしが働いてなんとかするよ」
「働くって、この前言ってた風俗のことかよ?!」
吾朗が慌てて言う。
「だって仕方ないでしょ、ほかに方法ないし」
「待てよ」
と拳磨は言っていた。
「俺に考えがある」