kataya

序章:拳(こぶし)

追いすがるやつを何人ぶちのめしたのか、もう分からなくなっていた。ケンカはガキの頃から確かに強かった。毎日のようにやっていた。部活でサッカーを始めてからは、試合に出してもらえないんでやらなくなったが。それでも、サッカーができなくなってからは再デビュー。
町で光学園の生徒と出くわすと、よくケンカを売られた。あれも神無月の報復だったのだろう。自分が支配する光学園を傷つけられたのが我慢ならないらしい。
しつこく追ってきたやつの膝を曲がらない方向にローキックで曲げてやった。
だが、こっちも息が上がってきた。拳磨はいいかげん嫌気がさしてきた。
その時だ、大きな松の木の下で、ゆらりと影が立ち上がった。金髪デブの室田だ。ウチの学校の番てことになってる。だが、本当に強いかどうかは分からない。なにかあっても直接手を下したりせず、いつも取り巻き連中を使っていた。拳磨とも微妙な距離を保っていた。
「こんなところにいやがった」また子分どもで済ませようってつもりだったのか、卑怯な野郎だ。
「剣ぃ! 目障りなんだよ、てめ……」
そう言いかけた室田に駆け寄ると、金髪頭をつかんで鼻面に膝をかました。
音立てて倒れた巨体に向けて拳磨は言った
「だから余計な口きくなっつってんだろ、ケンカの時はよ」
今度は追っ手を振り返った。
「次に顔を削られたいのはどいつだ?!」
もう誰もかかって来る者はいなかった。

待ち合わせした店に行くと、土肥吾朗(どひごろう)とサヨが待っていた。カフェなんかではない。中年夫婦がやってるさえない喫茶店だ。だが、コーヒーはうまい。
吾朗の前のテーブルにピザトーストの載った皿があるのに気がついた。こんなもん食ってたのか……拳磨は呆れた。
それでも吾朗は心配げに立ち上がって、
「大丈夫か?」
と声を掛けてきた。
「ああ」
拳磨は吾朗と向かい合っているサヨの隣に座った。水を持ってきた喫茶店のおばちゃんに、
「アイスコーヒー」
と言った。夏でもホットだが、今日はアイスにした。
拳磨はサヨのほうを見なかった。だから、どんな表情をしているかは分からない。
今日、河原に行ったのは吾朗のためではない。サヨが吾朗に行ってほしくないと思っているからだ。吾朗にケガをさせたくないと思っているから。
「すまん、拳磨」
吾朗が頭を下げた。
「で、相手は?」
「神無月はいなかった」
「やっぱりな」
「代わりに何人かきてた」
「何人いたんだ?」
「痛そう……」
サヨの声が横でした。
ふと見ると、右の拳に血が滲んでいた。歯が刺さったらしい。しかし、向こうの歯のほうも折れちまってるかもしれねえな、と拳磨は思う。せっかく神無月に小遣いもらっても、歯医者代に消えちまうんじゃあな。
「うちを儲けさせるだけだ」
そう独り言をつぶやいて薄く笑った。
「うちって、剣歯科クリニックのことだろ? おまえ、やっぱ家を継ぐわけ?」
拳磨は吾朗の質問には応えず、赤く腫れた両方の拳を結露した水のコップに押しつけて冷やした。
「しかし、おまえが歯医者とはな。ケンカで人の顔を削ってるおまえがねえ」
アイスコーヒーがきた。そのコップで、さらに拳を冷やそうとする。アイスにしたのはそのためだ。すると、拳磨の右手を、白い手が抑え、ハンカチでくるんだ。
「いいよ」
「だめよ」
サヨがハンカチを結ぶ。
拳磨の心臓が音を立てる。
初めてケンカで泣かせた相手は吾朗だ。拳磨の家の広い庭にある池で、ヤゴの抜け殻を見つけた。五歳ほどだった吾朗と拳磨は、それを取り合った。その果てに、吾朗が抜け殻を握りつぶした。カッとした拳磨は吾朗をぶって泣かせた。
サヨを取り合うのはよそうと決めた。ヤゴの抜け殻みたいに、吾朗か自分かどっちかが握りつぶしてしまわないように。

(つづく)

SPECIAL THANKS
株式会社モハラテクニカ・茂原純一社長

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