経営者の軌跡
戦後、原爆の廃墟の中で、自宅の四畳半の一部屋で始まった株式会社アールテック・リジョウ。時報時計の製作からスタートし、日本を代表する時計メーカーや、大手板金加工機メーカーからも精密板金の第一人者として信頼されるに至った。その歩みを取締役会長の石本邦雄氏に聞いた。
日本人なら、誰もが聞いたことがある学校のチャイムの音色「キンコンカンコーン」。職場の始業と終業を知らせる時報などで、いまでも毎日聞いている人は多いだろう。NCネットワークの時報もこの音色である。私たちが日常耳にするこのチャイムは、すでに電子音になっているが、最初は実際にハンマーが鐘を打ってこの音色を出していた。
この「時報チャイム設備」は、1963年ごろ、当時20歳だった石本邦雄氏によって生み出された。当時の時報は、サイレンやジリリリンというベルの音だったが、戦争を思い出すという人も多く、時計メーカーが相談してきたのだ。そこで、ラジオで耳にしていた「ウェストミンスターの鐘」のチャイムを作ったところ高評価を得て、のちに全国の学校へと広がっていった。
当時、広島では文字盤などの部品が手に入らず、名古屋のほうまで仕入れに出かけた。納品は2週間に1度、列車で東京まで通うという生活が続いた。しかし、丹精込めて作った時計が売れると、天にも登るような気持ちになり、苦にはならなかったという。
やがて、学校のチャイムは、後発メーカーの電子音チャイムに置き換わっていったため、同社ではすでに製造はしていないが、応接室にはいまでも当時のチャイムが、きちんと整備されて掛かっている。その音は、澄んで美しく、心が洗われるような響きだ。
同社の創業は1949年に遡る。原爆の廃墟の中で、父・石本和吉氏(当時55歳)と二番目の兄・俊彦氏(当時21歳)が焼け残った広島市南千田町の自宅の四畳半で、時報時計の製作を始めたのが出発点だ。
それより前、父の和吉氏が兄弟で経営していた津石製作所(大正年間操業・木工機械製造)では、時間管理装置として、時報のメカを組み込んだ時計を使用していた。これは和吉氏が考案し特許を取得していたもので、戦後の復興期に学校や企業で使えるだろうということで、本格的な製造に踏み切ったのである。
邦雄氏は5人兄弟の末っ子として生を受けた。父の和吉氏は、終戦前、当時としては画期的な、油圧でコントロールする「多刃自動旋盤」を設計していた。いまでも大切に保管された図面を広げ、邦雄氏は「やはり親父にはかなわない」と懐かしそうな顔をした。
長兄は大卒のエリートで、レーダーの専門家として従軍し、戦艦金剛とともにレイテの海に沈んだ。原爆で母は行方不明となった。原爆投下直後の広島で、母を探して毎日、思いつく限りの場所を歩き回った。しかし結局、見つけてあげることはできなかった。三番目の兄も亡くなった。終戦のとき、父、二番目の兄、姉と邦雄氏がのこされた。原爆投下の記憶は、思い出すといまでも辛い気持ちになり、心が痛むという。
1957年には組織を改め、株式会社鯉城時計製作所を設立。そして、1963年、現在の工場がある五日市に移転。同社の受託業務は木工から板金へと徐々に移行し、ミュージックチャイムの製作も始まった。
1978年にはパンチプレスを導入して、これを機に最新鋭板金機械の導入を進めた。緻密な設計と付加価値の高い製品開発により、1980年代はOEM生産でソニーや東芝、セイコーといった大手企業の信頼を集めた。メーカーの担当者の「こんなものはできないか?」という声に真摯に向き合い、一生懸命にやることによって人間関係を築き、技術力を磨いてきた。日本で初めて景品交換機を開発し、これは現在でも改良されながら継続している。
また、当時の学校向け教育放送は、学校ごとにそれぞれが教育番組を録画し、時間をあわせて教室で再生する仕組みが取られていた。それを前もって収録時間のセットができるメカ式のタイマーの開発に成功し量産化した。約10年の間、ソニーや内田洋行向けに供給した。
1985年にはアマダの薦めもあり、「広島シートメタル工業会」を結成。全国に先駆けて16社で発足した同会では、その後23年に渡り邦雄氏が会長を務めた。また中小企業家同友会佐伯支部や経営刷新研究会を立ち上げたほか、中小企業大学校のセミナー運営を経て、異業種交流会「鯉城倶楽部」をスタートさせるなど、邦雄氏を中心とした会が発足した。
こうした信頼関係から、アマダ本社で全国のユーザー向けに事業立ち上げや工業会の設立などのテーマで講演の依頼が来るまでになり、ものづくりのリーディングカンパニーとしての実力と、誰からも信頼される邦雄氏の人柄が広く知られるようになった。
また、同社ではOEM商品と並行して、自社独自製品の開発にも果敢に取り組み、2000年以降、様々な商品を発表し、数多くの受賞歴を持つ。
2005年には組み立て式の「ブロック棚」を開発。アマダより技能賞を受賞するとともに、2007年には第10回ひろしまグッドデザイン奨励賞を受賞した。2008年には「溶岩焼ワゴンテーブル」を発表。第11回ひろしまグッドデザイン奨励賞を受賞したこの商品は、いま同社社屋でも使用されており、会社のバーベキューの際に活躍するばかりか、そのアットホームな空気にひかれて、近所の人がふらりと立ち寄るという。また、2009年には伸縮式「ゴミダス」を開発。発想力で、多くの特許も取得している。
「メンテナンスができないようなら、売らない方がいい」と邦雄氏は語る。同社は常に、使う人の心を大切にしており、こうした顧客第一の姿勢が信頼を集めた。
父・和吉氏は92歳まで企業運営に携わり、引退後は悠々自適の穏やかな生活を過ごし、102歳の天寿を全うした。会社の発展に貢献した二番目の兄・俊彦氏も2018年5月鬼籍に入った。
現在、すでに社長職は邦雄氏の長男・英和氏に譲り、邦雄氏は会長職となった。しかしいまでも、日に3人は友人が訪ねてくるという。とにかく人が集まってきて、幹事役を頼まれることが多く、それは学生時代の同窓会などにも及ぶ。同級生の多くはリタイアしているが、自宅に籠もりがちな友人たちも楽しみにしているという。
また、同社の発展を支えた社員や取引先の人たちとも、信頼関係が続いている。チャイムを作っていた社員は独立し、広島で最大の音楽学校になった。同社の商品写真を撮影してくれた写真担当も独立して、広島で最も有名な写真屋となった。
邦雄氏はこれから先の時代をこう語る。「強いものが勝ち残るとは限らないし、設備があれば安泰というわけでもない。やはりそこに関わる人こそが企業の生き残りの条件だ」という。
意見の相違は親子兄弟でも当然あるし、ましてや社員同士や社員と経営陣の意見も同じであるはずがない。実際、二番目の兄とは、あまり意見が合わなかったという。それでもずっと一緒に協力しあって、あらゆる困難を乗り越えてきた。「意見を戦わすのも大切なプロセスであり、そのときには相違点ばかりを挙げるのではなく、意見の中にある同意できる点をできるだけ大切にしてお互いの幸福のために協力し、成果をわかち合う関係を保ちたい」という。
これから先はどんな夢があるかという質問に対し、「地域の人が知恵や技術を持ち寄って発表できるような場を作りたい。ほら工場の隣に空き地があるでしょう。ここにそういう場を作りたいんですよ」と、目を輝かせた。
素材の供給も自動。24時間稼働
所在地 |
〒731-5127 広島県広島市佐伯区五日市7-9-32 |
---|---|
TEL |
082-921-2292 |
URL |
|
創立 |
1949年 |
社員数 |
35名 |
事業内容 |
省力化装置や精密板金製品など付加価値の高い製品を安定的に供給している。OEM製品をはじめ、自社独自製品の開発もしており、特許も多く取得している。 |