経営者の軌跡

株式会社タムラ 代表取締役 田村 勇作

株式会社タムラ 代表取締役 田村 勇作

多品種少ロットの機械部品の切削加工を得意とする株式会社タムラは、約30年で急成長し、搬送機器、液晶・半導体製造設備、ロボット、産業用機械、原子力・火力発電設備等の大手企業と直接取引によって業容を拡大している。その歩みを代表取締役の田村勇作氏に聞いた。

町工場からの大きな飛躍

1966年の創業時には、汎用旋盤3台とボール盤2台を家の土間に置いて機械加工をしていた町工場だった。いまも、会社の規模自体は決して大きくない。

しかし、取引先には一部上場の大企業が並ぶ。(株)ダイフク、(株)SCREEN、東芝エネルギーシステムズ(株)など、いずれも一部上場の優良企業で、直接取引の口座を持つ。

技術の基礎を築いたのは、頑固一徹な職人の父だった。現在92歳で健在だが、60歳のときにきっぱりと引退を表明し、勇作氏に後を委ねた。父は、戦中・戦後の物がなく厳しかった時代を知るため、慎重で倹約を好む性格だが、勇作氏は「必要だと思ったものは、迷わず買う」ことにしており、直感と決断力で邁進する性格だという。いまやNC旋盤、複合機等で20台以上、マシニングセンタも5軸をはじめ、大型の横型や縦をそろえ、20台を超える設備力をもつ。大物長尺のマシンが稼働する工場1階は、まさに圧巻だ。これだけの設備が、敷地約1000坪、工場1階500坪、2階500坪ののべ1000坪に収まっている。

現在の工場は、バブル崩壊後、さらなる地価の下落や先行きの不安から、周囲の人たちが新工場設立に二の足を踏んでいた時期に建設を決断し、2002年に竣工した。この決断は、結果的に見ると、全体での投資金額を抑えることに繋がった。

同社の工場で特徴的なのが、二階建てで、一階に大型のマシニングセンタが入り、二階では、多数のNC旋盤、複合機が稼働している点だ。振動を抑えるために、基礎工事を念入りに行い、床面積を広げることに成功した。こうして、それまで2か所で稼働していた工場を1か所にまとめ、管理コストを削減し、ものづくりに注力できる体制を整えた。

半年のバックパッカー

こうした決断力は、生来のものだったのかもしれない。勇作氏は、会社に入社する前の23歳から24歳にかけての半年間に、フランス、イギリス、ギリシャ、インド、ネパールと旅をした。バックパッカーがブームとなる前の1975年のことである。当時、海外にいる日本人も多くはなかった。そして海外の人も、まだ日本人のことをほとんど知らず、もちろん日本料理屋などない時代のことである。身一つで飛び込んだ他国で、最後に頼ることができるのは自分一人しかないという環境は、型にとらわれない自律した精神と行動力の糧となった。当時のアルバムをめくりながら、「本当に楽しかった」と語る勇作氏は、昨日のことのように語り、目を輝かせる。

とても行動的な印象ため、社交的な性格かと思いきや、本人は自身を「内弁慶で、人付き合いは苦手」と言う。しかし、社長となったあとは、会社を存続させるために愛知県主催の交流会や展示会に、とにかく参加し、振興公社などの受発注のマッチングを行っている公的機関を積極的に活用したという。

こうして常に市場にアンテナを張り、努力して行動範囲を広げることによって、取引先と出会う機会を自ら作り出した。「機械さえあれば、あとは経営者のセンス次第。リーマンショックは厳しかったが、それでもその後はちゃんと業績が上がり続けている」と力強く語る。

取引先も認める社内システムと生産工場

さて、冒頭でも紹介したが、同社の取引 先には大手企業が名前を連ねる。

どのように関係を構築したのかを伺ったところ、まず、一度接点ができたら、決してギブアップしない。相手が考えていることを読むことが重要だという。あきらめず試作させてもらうことによって、精度、納期、価格を追求し、取引先で最も存在感のある立場になる。そして、並みいる競合との競争に勝ち、取引先の事業部で一番となることを目標とし、実現してきた。口座があって、相手の顔が見える距離で仕事ができれば、こちらの思いも顧客に伝えることができるようになり、無理な納期やコストダウン要求にも交渉の余地が残る。

実際、取引を開始するにあたって、ある大企業の担当者から、「お前のところは小さすぎる」と言われたこともあった。

しかし、工場内は5Sを徹底し、一度見にきてもらえれば、確実に信頼してもらえる現場を作り上げた。こうして顧客満足度を上げることを突き詰め、製品だけではなく、生産管理システムも含めて会社全体の体制を大企業に信頼してもらえるように構築してきた。

一般的に、生産管理は男性が行う印象が強いが、同社では携わる8名が全員女性である。管理部長の田村みさ子を要としたこのチームには、スケジュール管理を担うリーダーが1名おり、他のメンバーが指示書や受発注のとりまとめを行っている。また、生産管理システムは工場と直結しており、スケジュール遅れや機械の稼働状況などが、リアルタイムで全社的に把握できるようになっている。こうしたシステムは、既製のものを同社でカスタマイズしており、長年のノウハウが詰めこまれている。

そして今は、子息の公平氏が営業部長となり、三菱重工エンジニアリング(株)、愛知電機(株)、(株)フジクラといった大手の新規取引先を積極的に開拓し、直接取引口座の獲得に成功している。勇作氏が営業第一線にいた頃とは、企業との関係性構築の方法も変わってきており、また、大企業の海外移転が進むなかでの新規参入は狭き門だが、同社のお家芸である「あきらめない」心は引き継がれ、成果を上げている。この先の世代交代までには、まだいくつもの課題は残るが、会社を安定成長させていく道筋が整ってきている。

やりたいことへの情熱は続く

日本の中小企業を支えてきた経営者は、誰もが仕事一筋だが、この先やってみたいことを勇作氏に伺ったところ、やはり仕事に関する話が飛び出してきた。「私は親父みたいに、60歳できっちりとリタイアなんてできないですね」と笑う。

まず、ベトナム工場を立ち上げたいと言う。10年前から同社にはベトナムからの実習生がきているが、「3年で帰ってしまう。それに、日本で学んだ高度な技術を活かせる設備をもった企業がベトナムには少ない。結局は技術が宝の持ち腐れとなってしまい、もったいない」という。

現在、同社の工場で働くベトナム人は約20名で、実習生は9名だ。実習生のうち、プログラムができるのは1名、段取りができるのは約3分の1。ベトナム人は、教えればちゃんと真面目にやろうとするし、間違ったことを注意したら、素直に聞いてくれるので好印象をもっているという。いま社員として働いている若い人たちも、いずれ親が歳をとるなど周囲の環境変化によって、母国に帰りたいと希望するかもしれないので、そうした人たちが続けられる場を準備したいという。

すでに工場用地は、ハノイ近郊のタンロン工業団地3に、8,400㎡を確保した。竣工は2019年の6月を予定している。そして、70歳になったらベトナムに行ってCAD/CAMをやりながら人材の育成をし、顧客への製品供給方法をもっと幅広くしていきたいという。

次に、これは長年の夢だということだが、アルマイト工場を持ちたいという。責任を持って製品を納品する体制を強化するために、表面処理の工程はぜひ欲しいということだ。

そして最後に、後継者である公平氏の右腕となる人材を確保することだ。人が成長するには、無理だと思われることを乗り越える経験が必要であり、それを一緒にやっていくことによって連帯感が生まれる。やがてリーダーを中心とした強固なチームが出来上がるだろう。

このような良質の仕事と機会を会社として与えてやることが、やらねばならないことだという。



株式会社タムラ 代表取締役 田村 勇作工場外観

株式会社タムラ

所在地

〒480-0303 愛知県春日井市明知町1423-74

TEL

0568-88-2258

URL

http://www.tamura-corp.jp

創立

1966年

社員数

40名

事業内容

旋削・ミルフライス・穴あけ・内径キー・ワイヤーカット・平面研削・エアーブラスト加工による各種機械部品及び設備部品の製造。
設備:CNC複合旋盤、横型マシニングセンタ、縦型マシニングセンタ、その他汎用機等、切削機械。
加工可能範囲:旋削丸物はΦ550mmまで、長さ方向は2900mmまで。マシニング加工は、最大でX1350mm-Y1400mm-Z1100mmまで。
その他、キー加工、放電加工(ワイヤーカット)、平面研削が可能。

株式会社タムラ 代表取締役 田村 勇作 バックパッカーでギリシャ滞在時

株式会社タムラ 代表取締役 田村 勇作 2017年慰安旅行 出雲

株式会社タムラ 代表取締役 田村 勇作 長尺の加工も得意

株式会社タムラ 代表取締役 田村 勇作 材質はアルミ、鉄、ステンレス、 耐熱合金(チタン ニッケル)等に対応

 

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