経営者の軌跡
アルミ精密部品の機械加工専門メーカーとして、高難度の製品で最高品質を実現する中田製作所。「守る納期と作った製品が次の営業を約束する」を品質方針に、オンリーワンの地位を築いた創業者の中田良文氏に話を聞いた。
アルミの精密微細加工を得意とする中田製作所は、中田良文氏が1977年に創業。2017年に40周年を迎えた。
中田氏は1941年、兵庫県赤穂郡の山あいの地に、農家の長男として生を受けた。幼い頃は、牛を使って畝をつくるのが、地元でも評判になるほど上手だったという。
また、カメラや時計といった機械いじりも大好きで、学校の先生から「高校では機械をやったらどうか」と勧められたことがきっかけとなり、機械科に進学した。両親は「行きたいなら行っておいで」と送り出してくれたという。学校までは、家からは列車で片道2時間くらいかかったが、3年間通った。
卒業後、明石市にある2000人規模の大企業に就職し、電子科に配属された。安定したいい会社ではあったが、当時の風潮もあり非常に封建的で、出身学校によって生涯に出世でき上限が決められていた。高卒では順調にいっても係長まで、中卒は組長までだが、東大卒なら3年で課長になれる。
学歴で将来の可能性が決まってしまうことに疑問を感じた中田氏は、仕事自体は順調ではあったが、退職を決意した。実家は家族会議で次男が継ぐことに決まったため、一念発起して大阪に出ることにした。
すでに、機械・電子・エアーの3分野の知識と経験があった。大阪では3社を受けすべて合格したが、その中でも宮崎出身の社長の会社に行くことにした。選んだ理由は「この社長なら一生ついていける。それに、頑張れば社長になれるかも」と思ったからだという。21歳のことである。
この会社は金型・プレスの会社だったが、図面がなく、すべてが職人の頭の中にあった。いい技術があっても図面がなければ他人に伝えるのは難しく、その本人にしかできない。中田氏はこうした体質を改革していくのと同時に、電気のことを教え、機械化を進めながら、設計もやるようになった。その後、有能な人が入って来たので設計の課長の席を譲り、中田氏自身は開発に携わるようになった。
30歳のころ、スピーカー部品の組み立て機械を開発販売していたときのことだ。得意先を訪問した際に、同じく営業で訪問していた中学時代の学友に偶然再会した。その友人は独立してすでに6年目で、スピーカー部品で軌道に乗っていた。
お互いに技術力は高い。中田氏は日本中の得意先にその学友を連れて行った。そして、一緒に回るうちに、「自分も自分の城を作りたい。自分にもできるはずだ」と挑戦する気持ちが湧いて来た。そして、いい会社ではあったが、退職する気持ちを固めた。
しかし、決心はついたものの何をやるかが決まっていない。ただ、会社で培った人脈は使わないと決めた。そうすると、当然のことながら露頭に迷うことになる。心配した元勤務先の社長は、開発事業部の部下をつれて会社を作ったらいいと言ってくれたが、それでは雇われ社長である。
中学時代の学友も心配してくれ、今度は彼の得意先を一緒に回った。「加工をやりたい。旋盤なら機械も安いし工具も安価で、いま仕事もたくさんある。しかし、自分の力で伸びる余地も少ない」。そこで、フライス盤を購入することにした。
機械を購入しようと3社に連絡したが、そのうち2社は個人には掛けでは売れないという。しかし、ある商社の専務だけが、これまでずっと世話になったからと掛けで売ってくれた。
ようやく1月4日にKASUGAの工作機械が入ることになったが、世間はまだ正月休みで運ぶ人がいない。「あなたが初めてやる仕事だから」と、福井から社長が自ら運んで来てくれた。商社から2名が来て、電気とエアーまわりはすべてサービスで持って来て工事もやってくれた。設置終了後、機械メーカーの社長に、「今から部品加工に参入するのは大変だ」と言われた。冷や水を浴びせられた気持ちだった。しかし「なんとかやってやる」と奮起する気持ちもわき上がってきた。
そうは言っても、確かにアポすらとれず、門前払いばかりだった。それまでいかに会社という看板に助けられていたかを思い知らされたという。
当時は注文をもらえたら、なんでも引き受けた。昼に注文を受け、夜加工して、翌朝納品する。朝ごはんを食べる時間もなく、奥さんがおにぎりを持って来てくれ、口に入れてくれたという。
フライスの基礎は本を買って読み、応用力は自分でつけた。ここでの試行錯誤が、現在の同社の技術力の出発点ともなっている。
やがて起業後一年くらいすると学友から大量生産の会社を紹介してもらえた。ダイカストによるアルミの部品加工である。量産用に機械や治具も持ち込んでくれ、フライスを3台繋いで自動化し、マシニングセンタの前身ともいえるラインを作った。
複写機やミシン、鉛筆削りなどの部品加工で一気に売上が伸びたので、これを機に社内の体制を整えることにし、社会保険や福利厚生、退職金制度を整備した。
しかし昭和60年、量産案件がすべてストップする事態に陥った。このとき、量産の怖さが身にしみたという。
中田氏は、また飛込み営業をせざるを得なくなった。仕事を選んでいる場合ではなく、すべて言い値で受けた。フライスの加工方法はすべて独自で作り上げたため、工夫次第で利益は増える。
しかし、「お金は後回しでいい」と中田氏は言う。まず大切なのは納期を守ること、次に品質だ。不良品は、まず出さないことが前提だが、もしなんらかのトラブルが見つかったら、必ずその日のうちか、翌朝一番に持っていく。会社を存続させていく上で一番大切なのは「信用」だからだ。売上を重視した無理な受注はせず、一つ一つを丁寧に仕上げた。こうした姿勢が認められ、一度受注したら、必ずリピートが来るようになり、すると値段交渉もされなくなって、指値で受けられるようになった。
同社の創業以来の経営理念は、現在も毎週月曜に唱和されている。「ものづくりで社会に貢献し、全社員の幸福を目指す」という言葉には、製造業で生きていく誰もが忘れてはならない「心」が込められている。その原点を大切にするがゆえに、経営が苦しい時でも、社員旅行には社員の家族も呼んだ。
2005年、社長を息子の中田寛氏に譲った。寛氏は大学卒業後、東京の銀行に勤めており、いずれ起業したいと思っていたため、父親の会社を継ぐ気はなかったという。しかし、毎晩21時ごろになると母親から電話がかかってきて、戻って来ないかと言われる。ついに根負けした寛氏は実家に戻ることにした。
どの会社でも、創業時を影で支えているのは妻である。そして喜美子夫人は、自分からなかなか切り出さない夫に代わり後継の話をして、息子にバトンを繋いだ。良文氏は夫人のことを「文句も言わず、怪我もしたが、よく挫けずに仕事をしてくれた。たまに喧嘩はしましたけどね」と、感謝と尊敬の言葉で語る。
社長交代後、同社は超微小径穴加工や鏡面切削加工技術、アルミ観覧車の創作加工など、オンリーワンで世界トップの技術を次々と実現させ、良文氏が築いた基礎を大きく花開かせている。
現在、良文氏は、会社に出社する以外に週に1回はゴルフで健康維持に励んでいる。起業のきっかけとなった中学時代の学友とは、40数年来2か月に一度、特に最近10数年は毎月1回以上は一緒にコースを回っているという。
息子に安心して会社を任せられるようになった今、ものづくりを通じて社会に貢献して来たそのご褒美が、いまの良文氏を包み込んでいる。
所在地 |
〒581-0851 大阪府八尾市上尾町5-1-15 |
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TEL |
072-996-8621 |
URL |
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創立 |
1977年 |
社員数 |
32名 |
事業内容 |
アルミ精密部品加工の専門メーカー。 |