第1話 工場のにおい

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明希子は、静江が本気で言っていたのかと、あらためて驚いた。

「ま……まあ、待てよ」

とベッドの誠一が言った。

「お、おれだって、まだ引退する……つもりは、ない。し、心配するな……て、ての」

「そんなこと言ったって、お父さん――」

静江が不安そうな顔をした。

「だ……だけどよ、なんだ……ほれ……」

誠一がなにか言いたそうにしている。倒れた後遺症で、言葉がすぐに取り出せないのだ。

「“もしも、おれになにかあったときは”でしょ、お父さん」

静江が横から言った。

「うん、うん……そうだけど、さ」

「“あとは頼むよ、アッコ”ね、そうでしょ」

静江がせかすように口を挟む。

それを見ていた明希子は、

「ちょっと、お母さん、お父さんに話す余裕をあげなさいよ」

「そ、そうだよ。……しゃべらせろよ」

「あら、ごめんなさい」

「ま、まあよ、なんかあったときって、も……もう、じゅうぶん、なんかあったんだけどさ」

そう言って誠一が笑った。

「でもよ、う、うちはよ……」

「うちって、会社のこと?」

と静江がきくと、誠一がうなずいた。

「うちはよ、必要とされてる、るんだ。に、日本の産業は……よ、かな、かな、金型産業で……も、も、持ってるんだ。かな、かな、かな、金型産業は日本の……い、い、命だって」

誠一が興奮して言った。

面会時間が終わって、静江と明希子は病院を出た。

「お父さんのまえで、会社のこと話題にしないほうがいいよ」

明希子は言った。

「そうね。あたしも、心配なものだから、つい口にしちゃって」

そう言ったあとで、静江がくすりと笑った。

「右脳型人間、左脳型人間て言葉があるでしょ。お父さんたらね“おれは、そんな

呑気なこと言ってる場合じゃなくなった”って」

明希子も笑って、

「そんな冗談が出るんじゃあ、お父さん、もうだいじょうぶね」

EMIDAS magazine Vol.11 2006 掲載

※ この作品はフィクションであり、登場する人物、機関、団体等は、実在のものとは関係ありません

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