素顔

株式会社イナック 代表取締役 谷口 武司

株式会社イナック 代表取締役 谷口 武司

社員ひとりひとりの個性を大事にしたい

赤面症の少年

株式会社イナックの本社からほど近く、乙川(おとがわ)が流れる。春は河川敷の桜並木の花見、夏は花火大会が催され、行楽客で賑わう。ゆったりと流れる広い河川の光景は、どこか父の故郷である京の鴨川を思い起こさせた。

風光明媚なこの場所を目にした瞬間に、同社代表取締役・谷口武司(たにぐち・たけし)は、新たな活動の拠点を決定していた。

生まれも育ちも大阪府中部に位置する守口である。大阪城の守り口を意味するこの市は、直径は2センチほどだが、長さが1メートルにもなる守口大根の原産地でもある。守口はまた、モノづくりの盛んな町でもあった。

谷口の父・辰雄(たつお)は、建築資材を扱う会社に勤務するサラリーマンであった。父は身体が弱く、家計は厳しかった。

幼い頃の谷口は、「気弱で、目立つのが嫌いな赤面症だった」と、今やその片鱗も感じさせない当人が述懐する。

一方で、小学校に入学して間もなくすると、近所の年上のお兄ちゃんらに交じって野球を始めるという活発さも見せる。野球とはいっても、道具が満足に揃わない当時のこと、その辺に転がっている木をバット代わりに庭球を打つ三角ベースだ。しかし、小さい頃から始めていたのが功を奏した。小学3年生になって体育の時間にソフトボールをするようになると、同級生の誰よりも上手なのだ。引っ込み思案な谷口が、この時は誰よりも目立っていた。一芸は身を助けるで、そんな谷口はいじめっ子の標的にはならなかった。

鬼コーチの言葉

中学に進むと、野球部がなかったためにバレーボール部に所属した。中心選手として活躍したが、目立つのが嫌いな谷口のこと、高校ではもうバレー部に入るつもりはなかった。

ところが、中学時代に対戦したことのある近隣校の同級生が、一緒にやろうと熱心に誘ってくる。根負けした谷口は、2学期から入部を決めた。弱小チームだし、先輩も監督も優しいから、という誘い文句に安心したところもあった。

だが、谷口が加わった途端に状況は一変する。体育大を卒業したばかりの、やる気満々の男性教師がコーチに着任したのだった。彼は、まさに絵に描いたような鬼コーチ……いや、鬼そのものだった。

大阪の高校バレーは、1部、2部、3部、部外に分かれる。1~3部のそれぞれに16校が入り、それ以外の数百校は部外という、まったくすげない扱いなのだ。もちろん、谷口の所属するチームは部外である。鬼コーチは、「おまえらの目標は2部だ!」と高らかに宣言すると、それを実現させるべく生徒らに練習漬けの毎日を課した。授業前の朝練、放課後の練習は夜の9~10時に及んだ。

特訓の甲斐あって谷口が2年生の時、チームは3部に昇格した。そして、3年生として最後の大会に挑むこととなった。地元の新聞には、エース谷口を擁する同校の2部昇格を確実視する記事が掲載される。

どこかに驕おごりがあったのかもしれない。3セットマッチの1セットを圧勝。中高生は1セット15点で行われるが、2セット目も13対1とリードした。だが、そこからガタガタッと負けた。おまけに、キャプテンが脚を負傷。救急車で運ばれるアクシデントにも見舞われた。

もはや完全に戦意を喪失したチームは、その後の試合もズルズルと負け続け、とうとう高校最後のゲームを、3部入れ替え戦という屈辱の形で迎えたのである。うなだれるチームメートの前に、病院を抜け出してきたキャプテンが現れた。「みんなで頑張ろう!」すると、チームは再び一丸となった。顔を上げて戦い切った彼らは、辛くもその試合に勝って3部に踏みとどまった。

試合後にコーチがチーム全員に向けて言った。「おまえたちが大人になって、苦しいこと、くやしいことにぶつかった時、みんなと団結し、こうして頑張ったことを思い出してみるといい。しんどい時に、どれほどできるか――それが大切なんだ。そして、この時のことを思い出せば、必ず乗り越えられる」

思えば、ただ厳しいだけのコーチではなかった。学生結婚していたコーチは、朝練の時、チーム全員30人分のサンドイッチを奥さんにつくってもらい振る舞ってくれた。授業のほか、夜遅くまでの練習に付き合ってくれるコーチも大変だったに違いない。

3年間、バレーボールをやり切ったことは谷口に大きな自信を与えた。

新たな地

短大を卒業した谷口は、建築資材会社に就職した。彼の中にはひとつの強烈な場面が刻まれていた。中学2年の時だ、夜道を一緒に歩いていた父・辰雄が満月を見ながら、「悔しい」と泣いたのである。そして、「おまえは商売をして、見返してやれ」と。誰かになにか言われたのだろうか? それとも、見返すというのは、身体が弱く収入が少ない辰雄自身についてか?

いずれにせよ、谷口が建築資材会社に勤めたのは、仕事を覚え、いつか辰雄と一緒に「商売」をするためだった。4年勤め、手応えを感じ始めた頃だ、一緒に仕事をしようと父に告げた。すると、「物が売れる時代じゃない。もうあかん」という応えが返ってきた。それを聞いた途端、これまでなんのために頑張ってきたのか……と谷口はすっかり気が抜けてしまった。

なにか新しいことを始めよう! そう自らを奮い立たせ、近所の方からの紹介で、試作加工会社に転職した。

仕事内容はルート営業。大正時代に創業した老舗企業で、いわば殿様商売をしていた。これに飽き足らない谷口は、新規営業をしたいと直訴する。「そんなことせんでええがな」という社長をしり目に、会社四季報を開いて、片っ端から営業すると、面白いよ うに仕事が取れた。それなら、と社長も東京に営業所を出し、続いて愛知にも営業所を出すことに。「どこか、いい場所を探してこい」という命令に、「場所だけですよ」と請け負って、谷口の目に映ったのが、乙川の風景である。名鉄本線の駅、インターが近く、利便性も高い。場所を決めると、1年だけという約束で谷口自身が所長として着任することになってしまった。

大阪人の谷口が抱いた岡崎の印象は、西三河を代表する都市としてのプライドの高さだった。その懐へと、谷口は直球で飛び込んでいった。そして受け入れてもらった。守口を原産とする守口大根が、今や愛知・岐阜で多く産するように。

しんどい時に、どれほどできるか

約束の1年が経った頃、バブルが崩壊し、売り上げが下がった。「もう少しいてくれ」と言われ、谷口も腹を括った。

1997年3月、社長の勧めで愛知事務所が分社化され、株式会社イナックを設立。35歳の谷口と妻・和枝(かずえ)、営業2名、製造1名の船出であった。2年目、予期せぬことが起こった。本社が倒産したのである。イナックはいきなり4,300万円の未払金を抱えて しまう。共倒れになってもまったくおかしくない。その時、谷口はあのコーチの言葉を思い出す。「しんどい時に、どれほどできるか」――そして、奮起した。これまでは、のれん分けしてもらった本社に気を遣って、営業先は愛知・岐阜・三重に限られていた。これからは、全国が営業先なのだ。得意の新規営業に乗り出した谷口は、大手メーカーとの取引も成立させ、3年で未払金を回収した。

その後のリーマンショックの襲来の際にも、もはやなにも恐れるに足りなかった。「あの時のことを思えば、という気になっていたんです」。確かに仕事は減った。だが、手が空いた分、なにか新しいことができるのではないか?「透明にするのって、面白くないですか?」社員のそのひと言で始まったのが、『超可視化』である。透明ポリカーボネートを加工し、ポンプなどの内部構造を見えるようにする試作品づくりだ。

「社員の個性を大事にしたいんです。データーづくりが好きな人、製品をひたすら磨くのが好きな人、営業だって私のように新規に出向くのが好きな人もいれば、既存のお客さまを回るのが好きな人もいる。その、好きという個性から生まれたのが『超可視化』なんです」

「どこで売るかを考えてからつくる」も谷口のモットーだ。2004年、中国に独資会社を設立したのも、「モノをつくるためではなく、モノを売るためでした」

この中国での展開、最初の5年はまったく収益が出ず、撤退も考えた。「しかし、地元中国の方々が応援してくれたんです」。そのおかげで、機械1台と5人で始めた会社が、今や機械20台と40名の人員にまで拡大し、組織的に安定した。

そして、新たなマーケットを求め、21年1月開業目標で、同社はアメリカ進出を決めた。


取材・文=上野 歩


株式会社イナック 代表取締役 谷口 武司

株式会社イナック

 

所在地

〒444-0811 愛知県岡崎市大西町揚枝23 番地1

TEL

0564-27-1855

URL

http://www.kk-inac.com

創業

1997 年

従業員

38 名

事業内容

透明試作品・トランスミッション等、可視化のワンストップを可能にする創造試作カンパニー。新商品開発時に必要となる3D モデリング、構造・筐体設計及び樹脂・非鉄金属を使用した試作品モデル製作までを一気通貫で対応する。切削加工、高透明度、耐湿材料を使用した光造形のほ か、透明、多色、エラストマーなど多くの材料に対応した真空注型による成型や、試作品モデルへの二次処理にも対応が可能。

株式会社イナック 代表取締役 谷口 武司

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