素顔

株式会社木村鋳造所 代表取締役 木村 寿利

株式会社木村鋳造所 代表取締役 木村 寿利

これからは我慢しない

鋳物師の華

広さ東京ドーム5.5個分を誇る株式会社木村鋳造所御前崎工場の敷地内には、フルモールド鋳造によってつくられた巨大な地球儀「知恵ふくろう」(約6t)がある。中心にいるのは、モノづくりの英知の象徴を意味する金色のフクロウだ。フクロウを据えようと提案したのは、2016(平成28)年に旭日中綬章を受賞した、同社名誉会長・木村博彦(ひろよし)だ。「名誉会長が命を吹き込んでくれたのです」と同社代表取締役社長・木村寿利(かずとし)は語る。

同社は1927年(昭和2)、木村の曾祖父である常次郎が創業した。腕のよい船大工だった常次郎は、鋳造で用いる木型をつくるようになった。木型職人となった彼のもとに、今度は沼津の鋳物屋で廃業する会社があるから、引き継がないかという話があり、木村鋳造所を起こした。

鋳造とは、木型を砂の中に埋め、これを取り出すことで、鋳型をつくり、そこに熱して液体化した金属を流し込み、冷やして固める加工方法である。木型を砂に配置し、取り出すことを造型という。造型こそが、鋳物師(いもじ)の腕の見せどころだ。この作業次第で、製品に巣(す)と呼ばれる空間ができたり、形状が曲がったりといった見てくれの悪いものができる。溶かした金属は湯(ゆ) 、溶湯(ようとう)と呼ばれ、円筒形の炉であるキューポラでつくられる。キューポラでできる湯の量は限られているし、不良品をつくって、つくり直しになれば湯ばかり使って儲けがなくなる。逆に一発で決まれば、当時の鋳物師は肩で風を切って夜の街へと繰り出していった。

本家の長男の宿命

子ども時代の木村は、父・博彦から、我慢することを説かれ続けた。将来的に木村鋳造所を継ぐことになる本家筋の長男として、忍耐強さと我慢の必要性を徹底的に身につけさせられた。このことで、木村は自分の気持ちを表さない、おとなしい男の子になり、逆に両親を心配させるくらいになった。朝早くから工場に出ていき、真夜中に真っ黒になって帰ってくる博彦の姿とともに、本家の長男である使命感は木村に重くのしかかっていた。

一方で、木村はスポーツが得意な少年でもあった。小学校高学年期のプール開きの際には水泳のデモンストレーションに指名され、運動会ではクラス対抗リレーのアンカーだった。中学に入ると、陸上部からの誘いを断って軟式テニス部に入ったが、熱中するあまり腰を悪くしてしまった。これが災いして高校では運動部の活動ができなかった。

フルモールド鋳造法

木村が中学時代、会社にも変化があった。2代目社長である、木村の祖父・敬(けい)が倒れたのだ。後遺症の残った敬に代わって、博彦が3代目社長に就任した。それまで、真っ黒になって現場作業に勤めていた博彦は外回りの営業や銀行を相手にするためスーツ姿で出勤するようになった。

さらに博彦は、会社の鋳造法をフルモールド鋳造法に全面的に切り替える方針転換を行う。これは危険な賭けだった。木型を持っているということは、次回の仕事を依頼されるという債権であった。博彦はその債権を捨てる覚悟をしたのだった。「3代目は、よくこんな決断をしたものだと、つくづく思います」と木村は感慨深く語る。

フルモールド鋳造法とは、発泡スチロールで模型をつくり、これを砂に埋める。そこに湯を流し込む。湯は発泡スチロールを溶かしながら砂で固めた内部に流れ込み、鋳造物を加工するというものだ。

早稲田大学理工学部の鋳物研究所を卒業した博彦は、早くからフルモールド鋳造法に注目し、権威であるドイツのアーヘン工科大学のビットモーザー教授を訪ね、教えを受けてもいた。

木型の鋳造法に比べ立ち上げ納期が早く、発泡スチロールの模型段階で、製品形状の確認ができるなど、多くのメリットがある反面、製品の表面に発泡ビーズの跡が痘痕(あばた)のように残る欠点があった。しかし、モータリゼーションの到来とともに同社に発注があるのは、自動車のボディなどの大型部品の金型だ。「求められているのは、人目に触れる機械の大型部品のような商品ではなく、金型という設備だったのです」

そして、博彦はこの賭けに勝った。頻繁にモデルチェンジする自動車部品の金型に、短納期で応えたのだった。以後、同社の歴史はフルモールド鋳造法の進化と技術革新とともにある。

仕事に対する敬意

日本大学三島高等学校3年の木村は、日大理工学部の機械科に進学する予定だった。それを経営管理者向けの生産工学部管理工学科に進路変更させたのは、博彦だった。入学してみると、なるほど経営者の2世、3世が多く集まっていた。さらに木村は、腰に負担のかからないスポーツということで、アーチェリー部に入部する。「腰を使わないスポーツなんてなくて、アーチェリーはきつかったですけど」と苦笑いする。

体育会のアーチェリー部は上下関係や練習が厳しかった。それでも、3年生になった木村らは、それまでの伝統だった学ランをブレザーに変えた。おまけに遠征の移動中に、部旗を失くすという失態を犯す。怒った先輩たちから、これまでの功績を上回る実績を残さない限り除名すると宣告される。そして、木村たちは関東アーチェリー連合の試合で、創部以来初となる3位に輝き、汚名を返上した。「僕のゼミの先生が、アーチェリー部の顧問だったのですが、“おまえらの代は、本当にひどかったよな”といまだに言われます」。それでも、アーチェリーを通じて築いた仲間たちとの学部を越えた人間関係は、「僕の財産です」と言う。

卒業後はマサチューセッツ州のバブソン大学語学学校に留学。「2年間、肌で感じたこの国の自由さや可能性は、アメリカ工場をスタートさせる精神的な支柱になりました」。同社は2018年11月にインディアナ州シェルビービルに鋳物工場をオープンした。

帰国後は、木村鋳造所に籍を置いたまま、大手商社に出向。ディーリングの部署を皮切りに、社内教育の部署で教育体系図をつくり、財務で資金総括を覚え、数千人のリクルート学生の中から50人程度を採用する管理システムを構築するなど、4年間猛烈に働いた。「胃に穴があきました」と語る木村には忘れられない思い出がある。最終日に、木村は警備員の男性に訊きたいことがあった。「なぜ、役員でもない僕に、あなたはいつも敬礼してくれるのですか?」すると、その人はこう応じた。「あなたは、毎朝一番早く出社し、一番遅く帰る。その仕事に対する敬意です」。それを耳にした途端、木村はあたりをはばからず号泣していた。

31歳で木村鋳造所に入社した木村は、10年後41歳で社長に就任するまでのプログラムを博彦から渡された。そのプログラム通り、まず鋳物の仕上げ部門に配属された。まさに真っ黒になって働く、一番きつい仕事である。そして木村は気づく。この部署は、鋳物の不具合があった時、どの段階でそれが起こったかを見渡せる部署であると。バリが咲くということは金かなわく枠の重しが軽かったり、ボルトが緩んでいたからだ。その部門に伝えて、次から対処ができるといった具合だ。

一歩一歩段階を進んだ木村が社長に就任する直前、リーマンショックに見舞われる。

社長となった木村はこうした経済危機にも対処できるよう、鋳造だけでなく発泡スチロール模型の技術を活かしたイベント用の美術装飾やモニュメント、フィギュアを自由なサイズで造型するKRIT(クリット)というブランドを立ち上げるなど、エンターテインメントの分野にも進出。

さらには、3Dプリンターで砂型をダイレクトに製作。鋳型製作時間を大幅に短縮し、複雑な形状の鋳物を短納期で提供するDMPによって、自社が進化させてきたフルモールド鋳造法を凌駕するような、まったく新しい技術革新を行なおうとしている。「そう、我々は鋳造の革命児なのです」

I.T.+ I.T.=∞--インフォメーションテクノロジーとアイアン・タクティクスの融合。「これからは我慢しない。やり過ぎたらストップをかけてほしい」と博彦に宣言し、社長に就任した木村の挑戦は続く。


取材・文=上野 歩


株式会社木村鋳造所 代表取締役 木村 寿利

株式会社木村鋳造所

 

所在地

〒411-0905 静岡県駿東郡清水町長沢1157

TEL

055-975-7051

URL

http://www.kimuragrp.co.jp

創業

1927 年

従業員

854 名

事業内容

自動車用プレス金型用鋳物、工作機械・産業機械用鋳物、エネルギー関連鋳物の製造・販売。3D プリンタを使用した鋳物の製造・販売(DMP)。発泡スチロールによるモニュメント・フィギュアの製造・販売。リバースエンジニアリングによる現物復元、データ化 他

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