素顔

友鉄工業株式会社 取締役会長 友廣 和典

友鉄工業株式会社 取締役会長 友廣 和典

絶景が苦労を忘れさせてしまう

鋳造工場は遊び場

友鉄工業株式会社取締役会長・友廣和典(ともひろ・かずのり)にとって、鋳物工場は少年時代の遊び場だった。

大手鋳造メーカーに10年勤務した父・和有(かずとも)が、コルク工場跡の建物を購入し、1959年に設立したのが同社である。社名の由来は、ひとつに和有の父の名前が鉄郎であり、姓名から1字ずつをとった。さらには、和有自身が鉄を用いる鋳造業への思いが強く、2重の意味で友鉄とした。鋳物工場の朝は早い。5時、キューポラに鉄くず、コークス、石灰石をガチャガチャと入れる音で少年時代の友廣は目を覚ます。工場の敷地内に、社長家族の住居があった。会社設立に多大な出費をしたため、部屋ふたつ、台所に土間という住まいは質素だった。風呂もなくて、会社の社員用の浴室まで歩いていって入浴する。しかし、帰りは煤(すす)で足の裏が真っ黒になった。

だが、友廣少年にしてみれば毎日が楽しくて仕方がない。キューポラの横に山のように積まれた鉄くずを探ると、鍋、釜、アイロンが宝物のように発掘される。それを引っ張り出して遊ぶ。倉庫にはわらも積まれている。キューポラで溶かした鉄を運ぶ時、わらでふたをする。不純物をひとつの塊にするのに、わらのふたは効力を発揮した。そのわらも、格好の遊び道具である。

工場の土間には、鋳物師らがそれぞれに作業をするためのスペースがある。そこにある砂は鋳型をつくるためのものなのだが、子どもにとっては砂場がたくさんあるようなものだ。そうした砂は、やはり工場の敷地内で耕運機で耕し、土だまを砕いて用意される。朝が早い分、職人らの仕事は4~5時には終わる。友廣は、近所の子どもらと一緒に、作業スペースに入り込む。いわばそこは畑と一緒だ。砂を掘ると、農作物のように鋳物が出てきて、子どもらにしてみればそれが面白くて仕方がない。砂で道路や城をつくったりもした。

外には木型の置き場があって、それを組み上げ、隠れ基地を作ったりもした。転んで鉄くずでケガもしたけれど、そんなのはお構いなしだった。

嫌だった家業の手伝い

広島県安佐郡可部町(現・広島市安佐北区)は、五右衛門風呂の風呂釜を名産とする鋳物の町だ。中国山地は、砂鉄を原料に鉄を生産する「たたら製鉄」により、中世から近代に入るまで日本の85%の鉄を生産していた。山陽と山陰を結ぶ宿場町可部は、中国山地から瀬戸内海へと至る運搬ルートである太田川の流域にあり、鋳造の燃料となる木炭や、たたら製鉄で生産された鉄の集積地でもあった。これらのことから、可部では鋳物産業が発展した。

昭和に入って五右衛門風呂の需要が増大。友鉄工業も五右衛門風呂を中心に、20人ほどの従業員が生産を行った。

ところで、友廣少年にとって家業の鋳物工場は楽しいばかりの場所ではなくなった。小学5年の夏休みから、そこは自らも働く場になったのだ。主力製品は五右衛門風呂から家庭の庭にある小口径のマンホールや溝みぞ蓋ぶたに移っていた。そうした手で持てるような製 品をグラインダーで磨くなど作業の手伝いを命じられるようになった。

「金銭の感覚を身に付けさせたいということだったのでしょう、アルバイト代はもらっていました。といっても、時給80円ですよ」と友廣が当時を振り返る。

長い休みでなくとも、少しでも時間があれば家業の手伝いは当たり前になっていった。機械の汚れを落としてペンキを塗ったり、バリを叩いて仕上げをする。時給は年齢とともに上がっていたが、手伝いが嫌なのは変わらない。そのために、高校受験が近づくと週3回塾に通うことにした。勉強も嫌いだったが、仕事の手伝いよりましということだ。

鋳造工場に至る道

高校は広島市内まで1時間ほどかけて通っていた。勉強のほうは適当にやって、あとは麻マージャン雀三ざんまい昧の日々である。実家は建て直して拡張していたが、友廣は会社の寮に住んでいた。休みの前の日ともなれば、学友を呼んで徹夜麻雀にふけった。

それでも高校3年になると受験勉強に集中。九州の宮崎大学に進学した。「宮﨑はカープのキャンプ地なんで、まんざら縁がないわけもでないかと……」そう友廣が、にんまり笑顔で語る。

専攻は電気工学科。家に帰って跡を継ぎたいとは思はなかったし、父もそうは言わなかった。代わりに和有には、「これからは電気が必要な時代になるぞ」とアドバイスされていた。

夏休みに帰省すれば、相変わらず工場の手伝いで朝も早くから叩き起こされるのは変わらなかった。それが嫌なこともあって、卒業後の進路に家業は選択肢に入っていない。電機メーカー花盛りで、入りたいメーカーに入れる時代でもあった。だが、大企業に行っても、新卒が何百人といる中で埋もれたくはない。企業の歯車になるのが嫌だという気持ちがあった。「自分がなにをやっているかが見える仕事がしたかったんです」

大学4年の春休みに帰省した時だ。いつものように手伝いに駆り出された実家の職場で、鋳物の業界誌を開いたところ、名古屋にある鋳造機械メーカーがインターンシップを募集する広告が出ていた。興味を感じて応募し、そこで改めて鋳物づくりを体験すると、面白さに目覚めた。新卒採用に「応募してみないか?」と誘われ、エントリーした。すると、選考途中で、「お宅のご子息が受験しているが、いいのですか?」と和有のもとに連絡が入ったらしい。

結局その会社に採用が決まった。鋳造や鉄工、機械加工など10ヵ月の現場実習の後、電気設計課に配属された。その会社では、機械は製造だけでなく据え付けまで行っていた。試運転には、電気制御の設計者として、必然的に全国の名だたる鋳造工場に足を運ぶことになった。「実家の会社だけしか知らなったので、大工場がこんなにあるんだと驚きでした」

そこでしか見られない景色

入社から2年経った頃、和有が健康に不安があると伝えてきたことにより急遽退社。24歳で友鉄工業に入社した。

「その当時は健康に不安があったというんですがね……」と友廣は苦笑いするが、和有は元気に社長業を続行していた。

なにしろ現場を知らなければと、1年間鋳型をつくったり、電気炉で溶解や、鋳仕上げをしたりした。その後は、工場長に付いて勉強しろと命じられたが、その工場長が3ヵ月後に心筋梗塞で急逝した。

もはや現場を管理するのは自分の役目だった。前職で大企業の現場を見てきているから、自分の会社がいかに“腕”“記憶”“慣例”に頼って仕事をしているかが見えた。 友廣は、それらを作業マニュアルや作業規定などで「標準化」するべく、頑固一徹な職人と辛抱強く向き合った。友廣が30歳の時に、JIS優良工場認定制度が発足し、中国四国地方で初の認定を受ける。

その2年後、鋳造部門を安佐工場に集約した。順風満帆に見えた頃、中国製品が輸入されるようになり、主力製品だった家庭向け小型マンホールの売り上げが3分の1に落ち込んだ。そこで思いきって自動車用の金型鋳物にシフトした。

ここでも常に安値競争にさらされながら、客先と綿密な打ち合わせを繰り返す中で自動車のプレス金型のニーズにあった材質特性を持つ鋳物をつくっていった。

リクルートにも力を注いだ。自ら高校に出向いて進路指導の先生と懇意になり、生徒を推薦してもらう。

新入社員歓迎会も派手にやった。友廣が入社した当時は野球部しかなかったが、スキー部を創設して1年に1回は観光バスを貸し切り、日帰りスキーのツアーを組んだ。シーズンオフはビヤガーデン。ボーリング大会を企画して、豪華賞品を用意した。これらは今も社員が引き継いで、彼らの手で企画運営されている。

一方で、友廣自身の趣味はと言えば、広島県鋳物組合の視察旅行で新潟に行った際、造り酒屋に立ち寄った。そこで味わった地酒のうまさに衝撃を覚えた。以来、出張の際やプライベートな旅行でも、訪れたその土地の酒を楽しむ。47都道府県を制覇するまで残すところあと2県となったが、この記事が掲載される時には達成されているかもしれない。

もうひとつの趣味は登山。14年前、新入社員研修で、新人のほかにも希望者を募り富士山に登った。「日本一の山です。1度は行ってみたいと思っていました」

そのメンバーに山好きがいて、ほかの山も――ということになり、春夏秋の年3回、「登山ツアー」を行っている。

今年の8月には、社員とともに、10年振りに富士山に登った。「確かに大変ですけど、そこでしか見られない景色があります」

絶景が、それまでの苦労を忘れさせてしまうのは仕事も登山も一緒なのかもしれない。


取材・文=上野 歩


友鉄工業株式会社 取締役会長 友廣 和典

友鉄工業株式会

 

所在地

〒731-1142 広島市安佐北区安佐町飯室6151-1

TEL

082-837-0490

FAX

082-837-0481

URL

http://www.tomotetu.co.jp/

創業

1959 年

従業員

92 名

事業内容

素材開発から鋳造、切削加工までの大物(15t まで)フルモールド鋳造メーカー。

主要三品目

大型鋳鉄品(15 トンクラス)/消失模型鋳造品/大型機械加工(五面加工)

友鉄工業株式会社 取締役会長 友廣 和典

友鉄工業株式会社 取締役会長 友廣 和典

友鉄工業株式会社 取締役会長 友廣 和典

新規会員登録