素顔

近畿刃物工業株式会社 代表取締役社長 阿形 清信

近畿刃物工業株式会社 代表取締役社長 阿形 清信

安心して眠れる会社

確かそうな会社だし……

「あそこがええんちゃう?」と案内されたのは、会社から車で15分ほど走った淀川のほとり。遠くに京都の山並みが見渡せる、広くて穏やかな景色が広がっていた。どうやら彼のお気に入りらしいこの場所で、写真撮影を行う。淀川を背にして立った近畿刃物工業株式会社代表取締役社長・阿形清信が、「会社のすぐ隣でボーリング工事をしてたでしょ」と話しかけてくる。6月末には新工場がオープンする予定だそうだ。

 そこは、かつて駐車場だった。去年の天神祭りの日に、近所の寿司屋から出前を取った。毎年、天神祭りには、恒例の寿司を従業員に振る舞うのが習わしだ。その際、寿司屋の主(あるじ)に、隣の土地の持ち主について尋ね、土地を使いたい想いを話した。すると後日、地主からすんなりと「いいですよ」という回答が舞い込んだ。地主の奥さんが嫁いだ時からこの会社はある。確かそうな会社だし、近所から音などの苦情もない、話があれば貸すつもりだったと。天神様の奇しき縁(えにし)といったところか。

合っていた田舎暮らし

生まれは大阪市福島。まさに大阪のど真ん中で、「土を見ようと思ったら、学校のグラウンドしかない」――そんな都会から、中1の終わりに枚方(ひらかた)市に引っ越した。大阪と京都の中間に位置するそこは、自然があふれていた。校則が厳しかった福島の中学では丸刈りだった自分は、転校先の生徒たちが、「みんな不良に見えました。頭に毛があったからです」と当時を振り返って笑う。

コンクリートとがんじがらめの校則の都会から、何事にもゆるやかな田舎暮らしが、阿形の性に合った。そのせいか、新学期には早くも学級代表に選ばれていた。「都会から来たんで、優秀やと思われたんでしょうな」と、とぼける。

軟式テニスに夢中になり、学校近くにある企業の福利厚生施設のコートを借りる交渉をしたり、不敵にも大学のサークルに練習試合を申し込み、負けて罰ゲームにグラウンドを走らされたりした。

枚方に越したのは、父の清が新居を探していた頃、近畿刃物工業の従業員が物件を探してきてくれたためだった。この従業員は父の片腕だった人物で、毎年正月には阿形家を訪れる家族ぐるみ付き合いだった。

さて、同社は創業より、ダンボール加工用刃物の製造に特化した事業を行う。

ダンボールは1909年に初めて日本に入って来た。110年ほど前からの、比較的新しい産業である。当初は機械もアメリカ製。刃物も海外で買うしかなかった。国内でのダンボール事業の創始から50年後、父のもとにダンボール専門の刃物をやらないかという話が舞い込む。それが創業となる1960年。当時、ダンボールは品質はよいが高価であったため、生産する機械の需要があった。父も大きな志とともに、鍛治打ち刃物のようなところからチャレンジした。

話ちゃうやん

中学卒業後は、工業高等専門学校を受験し、入学。工業学科には進んだが、親が敷いたレールに乗りたくないという思いと、やはりそのほうがいいのかな、という気持ちが相半ばしていた。その迷いの表れのように、5年制の高専を途中退学して、阿形は大学受験している。めざしたのは理系の難関だった。「いや、当時の私は、自分をすごい人間だと錯覚していたんです」

ところで、阿形の入試は花と散った。ちょうど時を同じくして、父の体調が思わしくなくなった。「会社に入ってくれ」と頼まれ、阿形は家業の近畿刃物工業に入社する。だが、息子が入社したことでほっとしたのか、父は間もなく元気になった。「話ちゃうやん、てとこですわ」

利益を上げるという視点から

入社すると、大阪府工業技術研究所に技術委託生として通い、研究施設の手伝いをしながら熱処理機械工作の研修を受けた。

1年間の研修後、いよいよ近畿刃物工業の現場に出た。鋼板材をアセチレンガスで切断する、焼き入れ、フライス、研磨、すべての作業を5年ほどにわたって経験した。そののち、営業に配属され、外回りをするようになった。

どちらの部署にいた時も、利益を上げるにはどうしたらよいか、が常に念頭にあったという。

物流が木箱からダンボールケースに変わる時代の中で、ダンボール製品は発展進化を遂げていった。名古屋から以西、ダンボール刃物の会社は近畿刃物工業一社だけという位置にあったが、創立から24年経った当時、阿形が入社して8年後には新工場が完成した。「それはつまり、ずっと追求してきた『持続可能な収益体質を具現化したもの』だった」

現場作業では、もっと手数を少なくできないか、手離れがよくならないか、を考えた。営業では、注文を取るなら運びやすい軽いもの、小さいものがいい、といった具合だ。機械メーカーからの注文はまとまった数が出るが、利益率がいいのはユーザーからの特注品である。しかし、注文にばらつきがある。 まとまった注文があったほうが、生産体制が組み立てやすい。仕事があることが分かっているので、人も雇える。

「しかし、これができたのも、お客さまの信用があったからです。父の信用ゆえに成り立ったことなんです」

その父に反発したこともあった。入社して3年ほどした頃だ。社長は強く、みんなを引っ張っていく存在と思っていた。ところが父は違った。言うことを聞かない従業員らに、我まん強く付き合うのが父のやり方だった。それを見ていられなかった。阿形は、ほかの就職先を求め、家に荷物を取りに戻った。すると父が、「ほんまにしたかったら止めない。あとで後悔するなあと思ったらやめとけ」とひと言告げた。それを聞いて、阿形は会社に踏みとどまった。これは、人生最高の決断だった。

「自分の清信という名前は、“清”を“信”じろということなんですよ」と苦笑する。

突然の病魔

29歳で結婚して10年。専務として公私ともに充実していた阿形を、思っても見なかった病魔が襲う。土曜日の午後だった。運転していて、突然息ができなくなった。車を路肩に停め、呼吸を整える。やっと帰宅すると、シャツの両腕が汗でべちょべちょだった。家庭の医学書を開くと、心筋梗塞の症状だと推測した。しかし、もう病院は閉まっている。「今から思えば、救急車を呼ぶべきでした」

月曜に病院に行くと、そのまま入退院を繰り返した。ちょうど同じ頃、父も入院していた。社長と専務がいない! 会社にとって一大事であったが、危惧していたような状況にはならず、売上がなぜか上がった。嬉しい反面、ショックも大きかった。だが思った。「それができるだけの条件を親父がつくっていたのだ」と。そして思った、常に辛抱強く社員と向き合っていた父の姿を。

退院してからは、営業を離れ、経理を見るようになった。

2000年7月、父が亡くなり、43歳で社長に就任した。それまで、父の生き方があまりに職人らしく不器用に感じられたこともあったが、いざ自分が責任ある立場になると、皆の幸せな生活を守るということはとても難しく、父への尊敬の念がつのった。そして、社員一人ひとりと向き合うことの大切さを知り、改めて自分についてきてくれるかどうかを確認した。「だから、今うちで働いている人たちのために、頑張る想いが強くなった」

そして、会社の要となる基本方針を立てた。

・健全な発展と豊かな生活に寄与し、社会の発展に貢献する

・堅実経営を旨とし、積極的な業務展開を行い、永続的な発展を図る

・役員、従業員の資質の向上を測り、活力ある職場と幸福な家庭の創造に努める

利益を上げるという視線で、もちろん経理も見つめてきた。同じ項目で前年比がマイナスなら、コストカットするのが通常の考え方だとしたら、阿形はその項目以外の別のことに注ぎ込むことにした。それが、映画制作に協賛したり、プロバスケットボールチーム大阪エヴェッサのスポンサーになることだった。スクリーンや試合会場で自社名を見た従業員のプライドにつながり、仕事のモチベーションも上がる。「投資にはなるが、お金の価値は見方次第。経済は巡り巡るもの、という考えがあるんです」

最近は、ラジオ番組に出演し社員に向けて声を届けている。公共の場での発言は責任をもつ。だからこそ、ラジオを通じて阿形の今の気持ちを知ってもらうことに意味があり、こうした一体感が今後の成長の礎となることを信じて。

目指すは「安心して眠れる会社」――家庭でも職場でもなんの不安もなく、働ける会社。失敗しても、次に笑える環境づくり、それが自分の役割だと考えている。


取材・文=上野 歩


近畿刃物工業株式会社 代表取締役社長 阿形 清信

近畿刃物工業株式会社

 

所在地

〒570-0003 大阪府守口市大日町3-33-12

TEL

06-6901-1221

FAX

06-6905-9713

URL

http://www.kinkihamono.co.jp/
「近畿刃物工業60 年の歩み」配信中

創業

1960 年

従業員

40 名

事業内容

「紙粉の出にくい」スリッター刃物、TIN コート処理刃物、超硬刃物、コルゲート用刃物、フレキソ・プリスロ用刃物、破砕刃物等の製作とメンテナンス(再研磨)。罫線、刃物ホルダー等の機械部品製作。

主要三品目

工業用刃物及び機械部品製造/超硬刃物製造/鋸目立刃物製造

近畿刃物工業株式会社 代表取締役社長 阿形 清信

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