素顔
スプリンタートレノ――かつてトヨタ自動車が生産していた小型スポーツクーペである。中央ばね工業株式会社代表取締役・井上英博の愛車は通称=AE86型と呼ばれる。「10年前に、ふとまた乗りたくなって買ったんです。妻には“どういうつもり?”って言われちゃいましたが」と井上は笑う。
高校を卒業して同社に入社すると、真っ先に購入したのが同じクルマの1983年式、AE85型だった。100万円の中古車のローンが毎月5万円、ガソリン代が2万円、3万円を家に入れると、手取り10万円そこそこの給料は消えた。
同社は、井上の父・廣里(ひろさと)が1970年に東京・江戸川区で創業。井上の母・美英子の兄がプラスチック成型加工業を営んでおり、その隣に間借りするかたちでばね屋を始めた。
井上はごく幼い頃から機械に興味を持ち、加工機のギアを持ち出しては遊んでいた。「“なんだ、こんなところにあったのか。探してたんだよ”って、オヤジに言われたりしてました」
井上が小学生時代、千葉・柏市に工場が移転。一家も移り住んだ。
この頃になると、井上の興味は、バルサ材でつくる船やプラモデル制作では収まらなくなる。使えなくなった目覚まし時計や、小さくなって乗れなくなった子ども用自転車など、なんでもバラバラにしてしまう。当然のごとく元には戻らないのだが、面白くて仕方がない。
学校の男の子の間にはスーパーカーブームが訪れていた。「だけど、近所に走ってるわけでもないし、雲の上の存在でしょ」
井上が手にしていたクルマの本は、「修理屋さんが読んでるような雑誌でした」と語る。「仕組みや構造のほうに興味があって、こうすることでパワーが出るんだな、とか」
中学に入ると、工場から戻って晩酌を始めた父の代わりに、機械が生産を続ける製品でいっぱいになった箱を取り替えにいったりした。夏休みは小遣い稼ぎに工場の手伝いをする。パート従業員と並んで手加工をしたり、材料の切れた機械に材料を通し、稼働させる。「マイクロメーターやノギスは、たぶんその頃から使っていたと思います」
高校卒業後は、好きな自動車の修理工になるつもりでいた。それが、教師との進路相談に出席した父は、「進学させます」と突如宣言。「聞いてないよそんなこと、と思いましたね。勉強は嫌いだし、なんの準備もしていなかった。当然、大学受験したって落ちますよね」
すると今度は、「免許取って、入社しろ」と父に言われ、卒業と同時に合宿で自動車免許を取得。5月には家業の中央ばねに入社した。
この流れについて廣里とは、「特に話し合いはありませんでした。向こうは当然のことだと思ってるみたいだったし、こちらも自動車修理工も家業も機械いじりは一緒、程度の気持ちでした」
入社してすぐにトーションスプリング(ねじりばね)の製造担当になった。当時最新のばね加工機である。しかし、設定は操作する人間の勘がものを言う。
たとえば内径5ミリのばねをつくるとしよう。その際、ばねを巻き付ける芯金(しんがね)の径が5ミリでは、図面どおりにならない。材料を曲げ加工した時、工具を離すと、スプリングバックする(材料に施した変形が多少元に戻る)からだ。
また、ばねをへたらせない(弾性を低下させない)ために、低温でなます(熱処理する)必要がある。
これらを踏まえた芯金を選んで、機械に設置する必要があるのだ。
井上は芯金にばねを巻き付けてはライターで炙り、調節を続けた。
少年時代から慣れ親しんでいた現場である。1年くらいすると、仕事のかたちは一応できていたが、バラツキが出たり、機械の中でツールが嚙み合ってトラブルを起こすことがあった。そうなると納期に影響を及ぼす。
当時の大量生産に、現場は追いつけない状態が続いていた。納期遅れは当たり前で、客先から催促があったものから取りかかっていく。
親方から、「製品1万個のうち、急ぎ2千個を今日の内に出荷しろ!」という指示が飛ぶ。そうなると、宅配の最終便が出る夜の9時までに梱包し、集荷所に持ち込まなければならない。
こんな毎日でいいのだろうか、と思いつつ、どうにもならない。やめるか? やるか?しかないのだから、ただ続けていく。残業は毎晩9時、10時は当たり前である。終わるまで帰れない。
工場全体の生産管理体制ができていないのだから、自分で考えるしかなかった。横軸に日付、縦に機械番号を入れた表をつくり、予定を立てることにした。自分で立てたスケジュールで仕事をしていくと、やらされている感じから、自らがやる感覚に変わった。
最初は当然予定どおりにいかない。しかし、いかない原因を考えるようになった。そして、次にどうするかを――
不良を出せば、そのやり直しに時間を取られ、予定どおりにいかない。当たり前の話だが、それを自らがやる感覚の中で理解した時、詰めの甘さを思い知った。親方から、「不良を出すな」と言われ、分っているつもりであったが、ここでも自分の仕事として強く認識していなかったのだ。
機械のツールや、レイアウトなど、トラブルが出ないやり方を考える。センサーを付けてもみたが、センサーでトラブルは防げても、機械が止まっては生産性が上がらない。結局、きちんとセッティングしないとダメなのだと思い、機械のガタを修正したり、メンテナンスも自分で行った。
井上が担当するトーションのほか、フォーミング(曲げ)、コイリング(圧縮ばね)と機械の専門が分かれていて、相互協力はできないものの、あとの工程については、担当者のことを考えて作業を進めると協力してくれるようになった。理不尽なことを言われるのは実力がないからだ。結果を出せば、意見を聞いてもらえる立場になる。
そうやって、だんだんと仕事をコントロールできるようになった。納期を前倒しすれば、急な仕事も入れられる。
30歳くらいまで、そんなことを繰り返していた。その期間、仕事の合間にJAF(日本自動車連盟)の国内Bライセンスを取得し、国内ラリーに参加。年間3位の成績も残した。
2007年、廣里がかねてより公言していたとおり、65歳で社長を退いたのを機に、井上が社長に就任した。それから間もなく、リーマンショックが襲い、業績が急落する。「5年くらいきつかったですね」
社を再び上昇志向に転じさせたのは、新機軸を打ち出したことがきっかけだった。医療分野に乗り出したのである。
「もともと購買の方が持ってきた図面どおりのものをつくるばね屋ではなく、先さまの設計の方と共同開発するモノづくりをしてきましたので」という同社の技術力がここでも発揮された。
標準化の難しかった部品の測定を客先と共同で試験機を作り、極限まで精度を高めた。「苦労もしましたが、工程など社員に任せました」
人の命にかかわる仕事として、社員のモチベーションも高い。
「我々がつくるのは、ばねという機能部品です。目に見えるものではありませんが、これによって、暮らしが便利になったり、人助けができたら、苦労した甲斐があるというものです」
つい最近、線の太さが0.03ミリの極小プラチナばねを試作開発した。コイル幅の直径は0.5mm以下だ。今後、この機能部品が、どのような形で人の役に立つ製品として組み込まれるか――
「簡単で割のいい仕事もあるでしょう。しかし、我々は付加価値が高く、喜んでもらえる仕事を中心に据えていきたいと思います。社員には、何万個つくっても、そのひとつが、ひとりのお客さまの手にわたって役に立つのだというのを忘れないでほしい。つまるところ仕事は愛なんだと」
今や現場はNC化され、生産管理がなされて納期も守られている。そして、若い頃に井上が学んだことも現場で生きている。「ただスペックどおりモノをつくるんじゃなく、後工程への配慮を考えるというのも、仕事への愛ですね」
取材・文=上野 歩
所在地 |
〒277-0861 千葉県柏市高田1116-29 |
---|---|
TEL |
04-7145-2811 |
FAX |
04-7145-6800 |
URL |
|
創業 |
1970年 |
従業員 |
25名 |
お問い合わせ |
営業部課長 昆野 唯之 |
主要三品目 |
・押しばね |