Vol.3
戦前・戦中と航空機大国だった日本は、敗戦によって一切の航空機製造が禁止された。しかし、1952年、朝鮮戦争時の米軍機の修理・整備と、防衛庁向けの機体の生産で航空工業力を一部だけ復活。これにより、「これまで育ててきた設計や製造技術を活かしたい」という、技術者たちの想いが徐々に募っていった。 そんな中、1956年に通産省主導で、中型の国産輸送機計画が発案。翌年に政府が研究の補助金を拠出し、これに国内の機体メーカーが共同負担して、財団法人輸送機設計研究協会を設立。研究作業に着手した。製造禁止という空白の7年を経て、技術者たちの国産旅客機製造への挑戦が始まったのだ。
この財団法人には、戦前の航空機産業を支えた「5人のサムライ」が参加し、設計に没頭。彼らは、ゼロ戦、隼はやぶさ、飛ひ えん燕などの戦闘機の開発者。堀越二郎や土井武夫や木村英政、さらに太田稔、菊原静男といったメンバーであった。彼らが中心となって、『日本に適した旅客輸送機の形態』を研究し始めた。国内外の資料を集め、一年かけて検討。その結果、日本に適した短い滑走路で、試作機を作ろうということになった。
さらに、財団法人は市場調査などを実施。その結果を元に、「1200m級の短い滑走路から離着陸できる性能を持つ、ターボプロップ機※1」で基本案がまとめられた。「特に離着陸距離の短縮に力を入れた」と、木村は後に述べている。また、5人のサムライたちは『世界の最先端を目指したい』と思っていた。だが政財界だけでなく、国民の理解も得られず、ほんの少しの予算を獲得することにも苦労した。そんな中で、1958年に基本設計が開始され、技術者は試行錯誤を繰り返した。3ヵ月後、やっとの思いで、モックアップ※2を完成させた。
また一方で、同年に民間と政府の共同出資による「日本航空機製造株式会社」の設立が決まり、開発実現への一歩を踏み出した。同社には、政府のほか、航空機関連メーカーや商社など約200社におよぶ民間企業が出資し、官民一体となってこのプロジェクトに取り組んだ。 1961年頃から各社で飛行試作用の一号機の製作が始まり、世界初のジェット輸送機コメットの墜落を教訓に、疲労強度試験※3を取り入れた。1962年7月には、YSー11の飛行試作の試作第一号機が初公開された。その後、最終的な準備や試験が行われ、8月に初飛行を迎えた。「5人のサムライ」は名古屋の空港に集まり、初飛行を見守った。初飛行が行われた日は、朝早くから200人余りもの報道陣が詰めかけ、国内外からの華々しい注目を集めた。
マスコミにより初飛行の成功が大きく報じられたことで、戦後初の国産旅客機に対する国民の関心は高まっていった。そしてついに、1965年4月に初就航を迎える。同年9月には輸出の体制が整い、アメリカやアフリカなど世界各国に輸出された。
1903年12月17日、アメリカでライト兄弟が世界最初の有人動力飛行に成功した。この10年以上も前に、鳥の飛行を研究していた二宮忠八という日本人がいたことを知っているだろうか。二宮忠八は1889(明治22)年頃、滑走しているカラスを見て、そのカラスが羽ばたいていないのに気付き、研究を始めた。
彼は、向かってくる風を翼で受けとめることができれば、空を飛ぶことが可能ではないかと考えた。竹とんぼをあわせてプロペラを、そして三輪車をヒントに三輪の車輪を作った。さらに、聴診器のゴムをさいて使った動力や、とんび型たこの形を応用して、空気抵抗をうける翼を作った。そして、1891年に鳥型飛行模型機を完成させ、飛行実験を行った。さらに二宮は人力飛行機の構成を練り、1893年には大型模型飛行機「玉虫号」を完成させ、試験飛行を行った。
つまり、ライト兄弟の初飛行の10年以上も前に、日本独自の飛行機製作の事実があったことになる。しかも、ナントこの飛行機は動力装置をのぞくと、後の飛行機と同じ型式であった。二宮忠八の先覚者としての功績は、日本の航空市場に大きな意義を持つものということができる。
唯一の国産旅客機だったYSー11は、1971年に国会で生産中止が決定した。そして、2年後に販売を終了。技術を伝える後継機計画が進まないまま、 1982年9月に「日本航空機製造」は解散した。そして、昨年2006年9月30日のラストフライトをもって、YSー11は国内定期路線から引退。34年という長い歴史に幕をとじた。
その後、日本の航空技術は、ボーイング社の下請けや国際共同開発へと移行した。国際共同開発においては、日本の大手メーカーが多数参加している。機体・エンジンなどの主要部品やシステムに係わる日本の技術は、海外の航空機メーカーから高く評価されている。特に、炭素繊維などの複合材料関連の技術は世界トップレベルだ。そういった日本の大手メーカーの技術を支えているのは、すそ野の広い数多くの中小製造業である。
一方、民間機の統合設計や製造技術においての経験は、「日本航空機製造」が解体したこともあって乏しい。そんな状況を打開するべく、ライト兄弟が有人動力飛行に成功してから100年がたった2003年、「YSー11以来となる国産旅客機を作ろう」という計画が始まったのである。
その背景には、航空機市場の拡大がある。また、経済産業省によると、「世界全体の航空旅客数が2025年頃に現在の2.5倍になる」と予想されている(左上グラフ参照)。そして、環境に適応したエンジン開発などを通して、日本の航空機産業の国際競争力を強化する目的がある
現在、各国で航空機製造の一環として、経済性と環境適応性に特化した次世代航空機の研究が進められている。日本でも、環境に適応した高性能小型航空機の実現に向けて、2005年に中間計画が発表された。計画によると、早ければ2011年にも次世代の国産航空機が初飛行する予定である。
現在、次世代の国産航空機の実現にむけて、主に3つの研究・開発がなされている。
1つ目は、低コストの複合材構造技術の研究・開発。複合材を軽量化することにより、環境に負荷をかけず、さらにはコストも抑えられる。その結果、大型主翼モデルの製造が成功した。
2つ目は、高性能化の実現に向けた研究・開発。具体的には、空気抵抗を減らした空力設計や低騒音化である。研究の結果、新たな計測技術を確立。また、騒音発生のメカニズムを解明し、その低減化ができるようになった。
3つ目は、操縦システム技術の研究・開発。最新のIT技術を取り入れた操縦システムを採用して、操縦を容易にする計画だ。上記以外にも、安全性の向上や構造衝撃評価などの開発・研究に積極的に取り組んでいる。2011年の次世代国産航空機の誕生に向けて、日々研究・開発が進められているのだ。
飛行機(旅客機)1機あたりの値段は約200 億円と言われている。例えば、ボーイングB747-400 は、約1 億5,000 万~ 1億8,000 万ドル。つまり1 ドル=120 円換算で、 180 ~ 216億円ほど。電子機器類だけでも10億円ほどかかる。その他、エンジン1基8億円、ファーストクラス座席(2席)80万円となっている。
最新のN700 系新幹線の1両平均が約2 億5600 万円なので、約78 両分が買える!ちなみに、旅客機9機の値段で東京ディズニーランドが作れちゃいます。
写真提供:日本航空
1969年、人類が初めて月面着陸に成功した。32 年後の2001 年、デニス・A・チトーが民間人として世界で初めて宇宙旅行へと旅立った。そう、宇宙飛行士でもない、民間人の宇宙旅行が可能な時代がやってきた!早ければ2008 年に月旅行への第一発目を打ち上げる予定である。宇宙飛行士でもなんでもない民間人の月旅行も遠い未来の話ではなくなってきた。あなたが、宇宙旅行に行ける日も、もうそこまでやってきた。
月旅行 | $1億(約120億円)※1,※2 |
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本格宇宙旅行(軌道飛行) | $2,000万(約24億円)※1,※2 |
本格宇宙旅行(軌道飛行) | $102,000(約1,224万円)※1 |
※1 1ドル=120円換算 ※2 のべ6ヶ月~8ヶ月のガガーリン宇宙訓練センターでの訓練費用を含みます。(JTB宇宙旅行より) |
国際宇宙ステーションで用いられているメニューは250 種類以上を超える。加水食品(フリーズドライ)、温度安定化食品(レトルト)、自然形態食品(ナッツ、クッキーなど)、放射線照射食品(肉類)、生鮮食品(パン、野菜)、調味料に分けられる。
許可さえ得られれば、日本食も搭載することができる。今までに、日の丸弁当や肉じゃが、たこ焼きなどが搭載された。2005 年7 月には、日清食品と宇宙航空研究開発機構(JAXA)が共同開発した宇宙食ラーメン「SpaceRam」が野口さん搭乗のスペースシャトルに持ち込まれた。