第17話 挑戦

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試し打ちのため金型を温めるのに一時間ほどかかるので、「お茶でも」という穂積について夏目と明希子はあの玄関から工場に向かう通路とでもいった事務所にもどった。三人で膝を突き合わせるようにして、背もたれがきーきー音をたてる古い回転椅子に座る。ほづみ合成工業所は、設備も面積も現場に多くを割いているようだった。

「おれがガキの頃はさ」

穂積がのんびりと言った。

「よくニッパーつかってランナーから製品を切り離すのを手伝わされたもんだわさ。はっはっはっ」

ランナーとは、キャビティ(目的の形状=製品)に成形材料を導く流路である。射出成形機のノズルから勢いよく発射された溶融プラスチックは、スプルーという注入口から金型内に入り、ランナーを通ってキャビティに至る。

以前、エコ・トイレットの金型で、ほづみ合成が花丘製作所に注文をつけてきたのがこの部分だ。金型を削ったフライス目(刃の跡)がランナーに残っているというのだ。表面が滑らかでないと、製品に樹脂がすっきり流れないようで気持ちが悪いとの言い分である。これはまさしく先方の気持ちの問題であって、実際に製品に影響が出るとは考えにくい。そう、こだわりなのだ。だが、こうした強いこだわりを持つことが、自他の区別なく明希子は好きだ。それで、ベテラン職人の仙田の手を煩わせて、顔が映るくらいのランナーができるような金型の表面仕上げをさせたのだった。「これならランナーを見ながらひげが剃れらあ」とセンさんは言っていたっけ。

さて、金型とともに水や空気で急速に冷却された製品は、金型が開くと姿を現す。この時、プラスチックが通ってきた道筋もそのまま形となって金型上に残る。三角帽子のような注入口のスプルーにつづいて凧の骨組みのようなランナーが走り、その先にキャビティが付いている。プラモデルの部品を思い浮かべてもらえばいい。プラモのキットは、スプルーが取り除かれたランナーに部品が繋がっている状態のものだ。プラモを組み立てる際に、ランナーから部品を切り取るが、あのちいさな繋ぎめをゲートという。すなわち、ランナーからキャビティへの溶融プラスチックの“入口”である。

「いまじゃあ、エアニッパーの付いた取り出しロボットがあるから、製品を手作業で切る手間はいらないんだけどね。でも、あれだって、いかに際のところできれいに、しかも早く切るかコツがあるんだよ。思えば、おれの樹脂屋修行のはじまりだったかな、なんて思うわけさ」

穂積が懐かしげな眼をした。

「んで、そうやって手伝ってっとさ、なんかの用事でお袋んとこにきた近所のおばちゃんが、エライねって小遣いくれたりしてさ」

「いい町ですね、吾嬬町って」

明希子が言うと、

「モノづくりと人情の町よ」

とプラ屋の社長が応じた。

「ええ。こんどのこと、とても感謝しているんです」

「いいって。おれんとこも、そのうち協力してもらうことがあるわな。お互いさまさね、アッコさん。わははははははははは!」

準備が整ったと嶋から声をかけられ、ふたたび射出成形機の前にもどった。

「とりあえず百ばかり打ってみますかな」

と穂積。

「お願いします」

明希子は言った。

穂積が嶋に向かってうなずくと、彼が射出成形機を稼働させた。低いモーター音とともにサーボ・ダブルスライド金型が組み合わされ複雑精妙な運動を行う。そうして金型がまた左右に分かれると、嶋が成形機械のドアを開けて、

「どうぞ」

と促した。

明希子はうなずき、金型の下に両手を差し出す。その手の上に、インジェクターが押し出した二つのラジエターキャップがぽとりと落ちてきた。

二個取り――金型が行う一度の開閉によって、二個ずつの製品ができる。

生まれたてのラジエターキャップはまだほかほかと温かい。

それを横からのぞきこんで、

「順調、順調」

夏目が快心の笑みを見せる。

明希子は黙ったままうなずいた。ほんとうにそうだといいのだけれど。

成形した百個のラジエターキャップを水につけて急冷し、落ち着かせた。熱を持った樹脂は時間とともに冷却し、収縮するから、その分を計算に入れるための処置である。その後、〇・〇一ミリを確実に読み取ることができるマイクロメーターで、夏目が一個一個、キャップの直径を計測していく。

図面上では、直径五〇・三〇ミリの製品である。しかし、機械加工でコンマの単位まで寸分違わぬ成形品を生むことなど不可能だ。当然、公差が認められる。五〇ミリ寸法なら、プラス‐マイナス〇・二五ミリ――製品の一パーセントくらいの範囲がごくごく一般的なものだ。

だが、ラジエターキャップの場合、軸が数値以上に膨らめば、ネジ穴に入らなくなってしまう。したがって片側のみの公差になる。プラス○ミリ、マイナス〇・二五ミリで、これはけっこう厳しいものになる。

弓張り月の形をしたフレームのついたマイクロメーターのネジとネジのあいだにサンプル製品を挟み込むと、二点間の距離がカウントされる。これがラジエターキャップの直径だ。

穂積と明希子が見守るなか、手際よく計測を進めていた夏目だが、その顔がみるみる嗚蒼褪めていった。

「な……なんてことだ?」

押し殺したような声をもらした。

「ホームズ――」

明希子は声をかけたが、彼の耳には届いていないようだった。

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